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== 息子ゲルマヌスの消息 ==
== 息子ゲルマヌスの消息 ==
夫ゲルマヌスは550年末もしくは551年初頭に死去しており、息子ゲルマヌスが生まれたのはその後だった。息子ゲルマヌスのその後について確かなことは分かっていないが、[[マウリキウス]]帝時代に活躍した「[[パトリキウス]]」[[ゲルマヌス (パトリキウス)|ゲルマヌス]]と同一人物である可能性が指摘されている。彼は元老院の有力な指導者で、娘(長女)を皇帝の長男[[テオドシウス (マウリキウスの子)|テオドシウス]]に嫁がせるほどの力を持った<ref>Martindale & Morris (1980), pp. 505–506</ref><ref>Martindale, Jones & Morris (1992), pp. 528, 531–532</ref>。「パトリキウス」ゲルマヌスはマウリキウスを裏切って反乱者にして皇位簒奪者フォカスに内通、後にそのフォカスに対しても裏切り行為を働いたが、長女と共に処刑された。一方、歴史家のMichael Whitbyは、マタスンタの息子ゲルマヌスは[[ティベリウス2世]]とアエリア・アナスタシアの娘婿である副帝[[ゲルマヌス (カエサル)|ゲルマヌス]]と同一人物であるとしている<ref name="Whitby7">Whitby (1988), p. 7</ref>。副帝ゲルマヌスのその後の経歴は分かっていない。また、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌスを同一人物とし、息子ゲルマヌスに比定する説もある(つまり、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌス、息子ゲルマヌスを同一視)。ただし、副帝ゲルマヌスについては、マタスンタの後夫ゲルマヌスが前妻との間に儲けた次男ユスティニアヌス(525-582年)の息子(名前不明)である可能性も高く、信頼できる史料も存在しない為、確定出来ないのが現状である。
夫ゲルマヌスは550年末もしくは551年初頭に死去しており、息子ゲルマヌスが生まれたのはその後だった。息子ゲルマヌスのその後について確かなことは分かっていないが、[[マウリキウス]]帝時代に活躍した「[[パトリキウス]]」[[ゲルマヌス (パトリキウス)|ゲルマヌス]]と同一人物である可能性が指摘されている。彼は元老院の有力な指導者で、娘(長女)を皇帝の長男[[テオドシウス (マウリキウスの子)|テオドシウス]]に嫁がせるほどの力を持った<ref>Martindale & Morris (1980), pp. 505–506</ref><ref>Martindale, Jones & Morris (1992), pp. 528, 531–532</ref>。「パトリキウス」ゲルマヌスはマウリキウスを裏切って反乱者にして皇位簒奪者フォカスに内通、後にそのフォカスに対しても裏切り行為を働いたが、長女と共に処刑された。一方、歴史家のMichael Whitbyは、マタスンタの息子ゲルマヌスは[[ティベリウス2世]]とアエリア・アナスタシアの娘婿である副帝[[ゲルマヌス (カエサル)|ゲルマヌス]]と同一人物であるとしている<ref name="Whitby7">Whitby (1988), p. 7</ref>。副帝ゲルマヌスのその後の経歴は分かっていない。また、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌスを同一人物とし、息子ゲルマヌスに比定する説もある(つまり、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌス、息子ゲルマヌスを同一視)。ただし、副帝ゲルマヌスについては、マタスンタの後夫ゲルマヌスが前妻との間に儲けた次男ユスティニアヌス(525以降 - 582年の息子名前不明である可能性も高く、信頼できる史料も存在しない為、確定出来ないのが現状である。


== フィクション ==
== フィクション ==

2021年1月8日 (金) 04:42時点における版

マタスンタ
Matasuntha
東ゴート王妃

配偶者 東ゴート王ウィティギス
  ゲルマヌス
子女 ゲルマヌス
家名 アマル家
父親 エウタリック
母親 東ゴート女王アマラスンタ
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マタスンタまたはマタスエンタ、マタスウィンタ (ラテン語: Matasuntha, Matasuentha, Mathesuentha, Mataswintha, fl. 550年) は、東ゴート女王アマラスンタの娘。父はエウタリックで、兄弟に東ゴート王アタラリックがいる。母方の祖父母はテオドリック大王アウドフレダである[1]

生涯と家族

ヨルダネスの『ゲティカ』によると、エウタリックとアマラスンタはアタラリックとマタスンタという二人の子をもうけた。エウタリックが早くに亡くなったため、テオドリックの後をアタラリックが継いだが、彼も若くして死去し、女王として即位したアマラスンタも間もなく反対派に敗れて幽閉、殺害された。マタスンタは新たな東ゴート王ウィティギスと結婚したが、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスによって王国を奪われ、夫婦ともにコンスタンティノープルへ送られた。子が生まれないままウィティギスが死去すると、マタスンタはユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌスと再婚し、夫と同名の息子ゲルマヌスを生んだ。2人目の夫ゲルマヌスが死去した後は、マタスンタは再婚せず未亡人として余生を送った[2]

息子ゲルマヌスの消息

夫ゲルマヌスは550年末もしくは551年初頭に死去しており、息子ゲルマヌスが生まれたのはその後だった。息子ゲルマヌスのその後について確かなことは分かっていないが、マウリキウス帝時代に活躍した「パトリキウスゲルマヌスと同一人物である可能性が指摘されている。彼は元老院の有力な指導者で、娘(長女)を皇帝の長男テオドシウスに嫁がせるほどの力を持った[3][4]。「パトリキウス」ゲルマヌスはマウリキウスを裏切って反乱者にして皇位簒奪者フォカスに内通、後にそのフォカスに対しても裏切り行為を働いたが、長女と共に処刑された。一方、歴史家のMichael Whitbyは、マタスンタの息子ゲルマヌスはティベリウス2世とアエリア・アナスタシアの娘婿である副帝ゲルマヌスと同一人物であるとしている[5]。副帝ゲルマヌスのその後の経歴は分かっていない。また、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌスを同一人物とし、息子ゲルマヌスに比定する説もある(つまり、「パトリキウス」のゲルマヌスと副帝ゲルマヌス、息子ゲルマヌスを同一視)。ただし、副帝ゲルマヌスについては、マタスンタの後夫ゲルマヌスが前妻との間に儲けた次男ユスティニアヌス(525年以降 - 582年)の息子(名前不明)である可能性も高く、信頼できる史料も存在しない為、確定出来ないのが現状である。

フィクション

マタスンタは、L・スプレイグ・ディ・キャンプの歴史SF"Lest Darkness Fall"に登場している。またフランツ・クサヴァー・シャルヴェンカが、オペラ『マタスウィンタ』を作曲している (作曲1891年-92年、初演1894年)。

脚注

  1. ^ Cawley, Charles, Profile of Theodoric the Great and his family, Medieval Lands database (英語), Foundation for Medieval Genealogy, [自主公表][より良い情報源が必要]
  2. ^ Jordanes, "The Origin and Deeds of the Goths", Chapter 14. 1915 translation by Charles Christopher Mierow
  3. ^ Martindale & Morris (1980), pp. 505–506
  4. ^ Martindale, Jones & Morris (1992), pp. 528, 531–532
  5. ^ Whitby (1988), p. 7

参考文献

  • Martindale, John R.; Morris, John (1980), The Prosopography of the Later Roman Empire - Volume II, AD 395–527, Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-20159-9 
  • Martindale, John R.; Jones, A. H. M.; Morris, John (1992), The Prosopography of the Later Roman Empire - Volume III, AD 527–641, Cambridge University Press, ISBN 0-521-20160-8 
  • Whitby, Michael. (1988), The Emperor Maurice and his historian: Theophylact Simocatta on Persian and Balkan warfare, Oxford University Press, ISBN 0-19-822945-3