「朔寧郡」の版間の差分

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* [[1954年]][[11月17日]]、大韓民国が漣川郡[[朔寧面]]({{lang|ko|[[:ko:삭녕면|삭녕면]]}})の収復地区を[[中面 (漣川郡)|中面]](チュンミョン、{{lang|ko|[[:ko:중면|중면]]}})に、西南面古荘里を[[旺澄面]](ワンジンミョン、{{lang|ko|[[:ko:왕징면|왕징면]]}})に、鉄原郡寅目面の収復地区を[[新西面]](シンソミョン、{{lang|ko|[[:ko:신서면|신서면]]}})にそれぞれ編入した<ref>법률 제350호 수복지구임시행정조치법 ([[:ko:1954년|1954년]] [[:ko:10월 21일|10월 21일]])</ref>。
* [[1954年]][[11月17日]]、大韓民国が漣川郡[[朔寧面]]({{lang|ko|[[:ko:삭녕면|삭녕면]]}})の収復地区を[[中面 (漣川郡)|中面]](チュンミョン、{{lang|ko|[[:ko:중면|중면]]}})に、西南面古荘里を[[旺澄面]](ワンジンミョン、{{lang|ko|[[:ko:왕징면|왕징면]]}})に、鉄原郡寅目面の収復地区を[[新西面]](シンソミョン、{{lang|ko|[[:ko:신서면|신서면]]}})にそれぞれ編入した<ref>법률 제350호 수복지구임시행정조치법 ([[:ko:1954년|1954년]] [[:ko:10월 21일|10월 21일]])</ref>。
* [[1961年]]3月、朝鮮民主主義人民共和国が[[臨津江]]を境界として、その西側にあるかつての西南面の地域を、[[長豊郡]]に移管した。
* [[1961年]]3月、朝鮮民主主義人民共和国が[[臨津江]]を境界として、その西側にあるかつての西南面の地域を、[[長豊郡]]に移管した。
* [[1963年]][[1月1日]]、大韓民国が[[鉄原郡 (南)|鉄原郡]]新西面(寅目面の{{仮リンク|収復地区|ko|수복지구}}を含む)を漣川郡に編入した<ref>법률 제1178호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 ([[:ko:1962년|1962년]] [[:ko:11월 21일|11월 21일]])</ref>。
* [[1963年]][[1月1日]]、大韓民国が[[鉄原郡]]新西面(寅目面の{{仮リンク|収復地区|ko|수복지구}}を含む)を漣川郡に編入した<ref>법률 제1178호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 ([[:ko:1962년|1962년]] [[:ko:11월 21일|11월 21일]])</ref>。
* [[1972年]][[12月28日]]、大韓民国が鉄原郡乃文面篤倹里を鉄原邑(チョルウォヌプ)に編入した<ref>법률 제2395호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 ([[:ko:1972년|1972년]] [[:ko:12월 28일|12월 28일]])</ref>。
* [[1972年]][[12月28日]]、大韓民国が鉄原郡乃文面篤倹里を鉄原邑(チョルウォヌプ)に編入した<ref>법률 제2395호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 ([[:ko:1972년|1972년]] [[:ko:12월 28일|12월 28일]])</ref>。



2020年12月19日 (土) 22:31時点における版

朔寧郡(サンニョンぐん、さくねいぐん、朝鮮語: 삭녕군)は、かつて京畿道の北東部にあったで、1914年に郡の西南部が京畿道漣川郡、東北部が江原道鉄原郡にそれぞれ編入され、廃止された[1]

現在は、大部分の地域が軍事境界線の北側に属しており、東南部の一部地域だけを大韓民国が管轄するが、大韓民国の管轄地域は鉄原邑(チョルォヌプ)朝鮮語版篤倹里(トッコムニ)朝鮮語版を別にすれば、全域が京畿道漣川郡に属している。

歴史

  • 高句麗時代は所邑豆県(ソウットゥヒョン)と称されていた。
  • 1403年に、僧嶺県(スンニョンヒョン)が朔寧県に編入された。
  • 1414年に、安峡郡を合併して安朔郡朝鮮語版となった。しかし、1416年には元に戻された。
  • 1895年に、朔寧郡に昇格した。
  • 1914年4月1日、郡内面(クンネミョン)、東面(トンミョン)、西面(ソミョン)、南面(ナンミョン)が漣川郡に、乃文面(ネムンミョン)、寅目面(インモンミョン)、馬場面(マジャンミョン)が江原道鉄原郡にそれぞれ編入されて朔寧郡は廃止された[1]
    • 当時の朔寧郡にあったのは7面(郡内面、東面、西面、南面、乃文面、寅目面、馬場面)。
    • このうち、郡内面は漣川郡北面(プンミョン)、西面と南面は一緒になって漣川郡西南面(ソナンミョン)となった。
  • 1934年4月1日、漣川郡北面と東面が統合されて、朔寧面(サンニョンミョン)と改称された。
  • 1945年9月2日、米ソが38度線を境界として朝鮮半島を分割占領することとなり、朔寧郡だった地域はすべてソ連軍軍政下に入った。
  • 1952年12月、朝鮮民主主義人民共和国が、朔寧面と西南面を鉄原郡へ編入し、漣川郡(北朝鮮では련천군と表記する)を廃止した。
  • 1953年7月27日朝鮮戦争の結果、大韓民国が朔寧面の陶淵里(トヨンニ、도연리)、魚積山里(オジョクサンニ、어적산리)、笛音里(チョグムニ、적음리)それぞれの一部、西南面の古荘里(コジャンニ、고장리)の一部、寅目面の南側に当たる道密里(ドミルリ、도밀리)、徳山(トクサンニ、덕산리)、葛峴里(カリョンニ、갈현리)、薪峴里(シニョンニ、신현리)と、乃文面篤倹里(トッコムニ、독검리)の一部を収復した。
  • 1954年11月17日、大韓民国が漣川郡朔寧面삭녕면)の収復地区を中面(チュンミョン、중면)に、西南面古荘里を旺澄面(ワンジンミョン、왕징면)に、鉄原郡寅目面の収復地区を新西面(シンソミョン、신서면)にそれぞれ編入した[2]
  • 1961年3月、朝鮮民主主義人民共和国が臨津江を境界として、その西側にあるかつての西南面の地域を、長豊郡に移管した。
  • 1963年1月1日、大韓民国が鉄原郡新西面(寅目面の収復地区朝鮮語版を含む)を漣川郡に編入した[3]
  • 1972年12月28日、大韓民国が鉄原郡乃文面篤倹里を鉄原邑(チョルウォヌプ)に編入した[4]

下位行政区域

邑・面 法定里 改編後の行政区域
郡内面 朔寧里、古馬里、大寺里、上馬山里、余尺里 漣川郡朔寧面[5]
東面 陶淵里、魚積山里、笛音里、積洞山里、辰谷里
西面 佳川里、冷井里、石屯里、率賢里、獐鶴里 漣川郡西南面[6]
南面 貴存里、古荘里、伍炭里
乃文面 倉洞里、篤倹里、乃文里、馬放里、斑石里、五里洞里 鉄原郡乃文面
馬場面 長浦里、南院里、大田里、密巌里、往避里、立石里 鉄原郡馬場面
寅目面 道密里、薪峴里、葛峴里、徳山里、検寺里、承陽里 鉄原郡寅目面

脚注

  1. ^ a b 朝鮮総督府令 第111号(1913年12月29日)
  2. ^ 법률 제350호 수복지구임시행정조치법 (1954년 10월 21일)
  3. ^ 법률 제1178호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 (1962년 11월 21일)
  4. ^ 법률 제2395호 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법 (1972년 12월 28일)
  5. ^ 大韓民国漣川郡中面に、朝鮮民主主義人民共和国鉄原郡にそれぞれ編入した。
  6. ^ 大韓民国漣川郡旺澄面に、朝鮮民主主義人民共和国長豊郡にそれぞれ編入した。