「フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[Image:Friedrich-Christian.jpg|thumb|フリードリヒ・クリスティアン(1751年、[[アントン・ラファエル・メングス]]画)]]
| 人名 = フリードリヒ・クリスティアン
'''フリードリヒ・クリスティアン'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Friedrich Christian</span>''', [[1722年]][[9月5日]] - [[1763年]][[12月17日]])は、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]](在位:[[1763年]])。[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]([[ポーラン国王|ポーランド王]]アウグスト3世)と[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ1世]]の皇女[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]の三男で、全名は'''フリードリヒ・クリスティアン・レオポルト・ヨハン・ゲオルク・フランツ・クサーヴァー'''(<span lang="de" xml:lang="de">Friedrich Christian Leopold Johann Georg Franz Xaver</span>)。
| 各国語表記 = Friedrich Christian
| 君主号 = [[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]]
| 画像 = Friedrich-Christian.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = フリードリヒ・クリスティアン(1751年、[[アントン・ラファエル・メングス]]画)
| 在位 = [[1763年]][[10月5日]] - [[12月17日]]
| 戴冠日 =
| 就任式 =
| 祝祷式 =
| 即位式 =
| 別号 =
| 配偶号 =
| 在位2 =
| 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 全名 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1722|9|5|no}}
| 生地 = [[ドレスデン]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1722|9|5|1763|12|17}}
| 没地 = ドレスデン
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[ドレスデン宮廷教会]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[マリア・アントーニア・フォン・バイエルン]]
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 王家 = [[ヴェッティン家]][[アルベルティン家|アルブレヒト系]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
| 父親 = [[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]
| 母親 = [[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ]]
| 宗教 =
| サイン =
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'''フリードリヒ・クリスティアン'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Friedrich Christian</span>''', [[1722年]][[9月5日]] - [[1763年]][[12月17日]])は、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]](在位:[[1763年]])。[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]([[ポーラン国王|ポーランド王]]アウグスト3世)と[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ1世]]の皇女[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]の三男で、全名は'''フリードリヒ・クリスティアン・レオポルト・ヨハン・ゲオルク・フランツ・クサーヴァー'''(<span lang="de" xml:lang="de">Friedrich Christian Leopold Johann Georg Franz Xaver</span>)。


== 生涯 ==
生まれつき病弱で、片足が不自由だったため車椅子を使っていた。母マリア・ヨーゼファはフリードリヒ・クリスティアンよりその弟たちに選帝侯位を継がせようとしたが、結局[[1763年]][[10月5日]]にフリードリヒ・アウグスト2世が死去すると、フリードリヒ・クリスティアンが選帝侯位に即いた。即位してすぐ、ザクセンの財政を破綻させ、国を[[七年戦争]]に巻き込んだ不人気な大臣{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・ブリュール|en|Heinrich von Brühl}}伯爵を解任した。ハインリヒは10月に亡くなったが、フリードリヒ・クリスティアンも[[天然痘]]に罹り、同年[[12月17日]]に[[ドレスデン]]で急死した。フリードリヒ・クリスティアンの遺体は[[ドレスデン宮廷教会]]に葬られた。長男の[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]が選帝侯位を嗣いだが、13歳と年少のため、王妃の[[マリア・アントーニア・フォン・バイエルン|マリア・アントーニア]]とフリードリヒ・クリスティアンの弟[[フランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン|フランツ・クサーヴァー]]が[[摂政]]を務めた。
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2020年1月21日 (火) 11:28時点における版

フリードリヒ・クリスティアン
Friedrich Christian
ザクセン選帝侯
フリードリヒ・クリスティアン(1751年、アントン・ラファエル・メングス画)
在位 1763年10月5日 - 12月17日

出生 (1722-09-05) 1722年9月5日
ドレスデン
死去 (1763-12-17) 1763年12月17日(41歳没)
ドレスデン
埋葬 ドレスデン宮廷教会
配偶者 マリア・アントーニア・フォン・バイエルン
子女 一覧参照
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 フリードリヒ・アウグスト2世
母親 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
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フリードリヒ・クリスティアンFriedrich Christian, 1722年9月5日 - 1763年12月17日)は、ザクセン選帝侯(在位:1763年)。フリードリヒ・アウグスト2世ポーランド王アウグスト3世)と神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇女マリア・ヨーゼファの三男で、全名はフリードリヒ・クリスティアン・レオポルト・ヨハン・ゲオルク・フランツ・クサーヴァーFriedrich Christian Leopold Johann Georg Franz Xaver)。

生涯

生まれつき病弱で、片足が不自由だったため車椅子を使っていた。母マリア・ヨーゼファはフリードリヒ・クリスティアンよりその弟たちに選帝侯位を継がせようとしたが、結局1763年10月5日にフリードリヒ・アウグスト2世が死去すると、フリードリヒ・クリスティアンが選帝侯位に即いた。即位してすぐ、ザクセンの財政を破綻させ、国を七年戦争に巻き込んだ不人気な大臣ハインリヒ・フォン・ブリュール英語版伯爵を解任した。ハインリヒは10月に亡くなったが、フリードリヒ・クリスティアンも天然痘に罹り、同年12月17日ドレスデンで急死した。フリードリヒ・クリスティアンの遺体はドレスデン宮廷教会に葬られた。長男のフリードリヒ・アウグスト3世が選帝侯位を嗣いだが、13歳と年少のため、王妃のマリア・アントーニアとフリードリヒ・クリスティアンの弟フランツ・クサーヴァー摂政を務めた。

子女

1747年に従妹にあたる神聖ローマ皇帝兼バイエルン選帝侯カール7世の皇女マリア・アントーニア(1724年 - 1780年)と結婚し、以下の子供をもうけた。

先代
フリードリヒ・アウグスト2世
ザクセン選帝侯
1763年
次代
フリードリヒ・アウグスト3世