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営繕部は国有財産および営繕に関する事項を管掌し、部内に管財・設計・施行の三課が置かれた。
営繕部は国有財産および営繕に関する事項を管掌し、部内に管財・設計・施行の三課が置かれた。
1949年(昭和24年)6月1日、逓信省が[[郵政省]]と[[電気通信省]]とに分割されると、それぞれ大臣官房に建築部が置かれた。
1949年(昭和24年)6月1日、逓信省が[[郵政省]]と[[電気通信省]]とに分割されると、それぞれ大臣官房に建築部が置かれた。

== 特徴 ==
建築の[[文化]]や[[文明]]とともに国家の中枢を省が担うというところからこの省にエリートな建築家が集まっていった。彼らは国の政策を担っているつもりで当時の近代建築運動にも共感を示し、日本の近代建築におけるひとつの軸を形成したことが知られている。大きな政府の強い政策のもとに結集したある種のエリート集団であることでことのほか自由な思想が保障されていたので、組織の論理に従うのではなく自分の価値観そのものが時代と国を映し出すのであり、信念を表現することが社会のためになる、という確信を持ちえるエリートが存在しえた状況であった<ref>小原 誠, 丹羽 和彦 「分離派風局舎」と逓信省営繕の建築 : 大正後期の逓信省建築に関する研究 その2 日本建築学会計画系論文集 / 64 巻 (1999) 516 号 </ref>。

こうして、佐立、吉井以降も特に[[内田四郎]]、[[渡辺仁]]らが加わってからは、逓信建築は彼らが切り開いた[[大正期]]の[[モダニズム]]の時代にふさわしい建築へと発展した。その後も[[三橋三郎]]が1889年に、[[大島三郎]]が1917年に、岩元禄と[[森泰治]]が1918年に、[[吉田鉄郎]]が1919年に、山田守と[[中山広吉]]が1920年が入省してくる。そこは官庁営繕というより自由な建築デザインの揺籃がみられ、特に1910年代は黄金時代の始まりとみられている<ref>[[内田祥三]]もまた当時、その自由な空気と、設計能力の高いスタッフが集まっていたことを証言しており、後に子息[[内田祥哉]]が後進の電電公社に入社している。(インタヴュー 吉田鐵郎の平凡、官庁営繕の公共性 (特集 平凡建築) 内田 祥哉 , 長島 明夫 建築と日常 (5), 6-20, 2018)</ref>。


== 脚注 ==
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[[カテゴリ:公共事業]]
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[[カテゴリ:1886年設立]]
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== 参考文献 ==
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*[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1842248 逓信省五十年略史]
*[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1842248 逓信省五十年略史]

2018年8月24日 (金) 13:17時点における版

逓信省営繕課(ていしんしょうえいぜんか)は、日本明治期から戦前戦中にかけて、郵便電信電話の各事業を管轄していた逓信省において、局舎等の施設を設計担当していた官僚の建築技師集団。大蔵省営繕管財局とともに、時代をリードする個性溢れる建築家を多く擁していた[1]

また分離派山田守らや彼らの先輩格である岩元禄らが在籍し、往時の建築設計に纏わる逸話なども含め大正から昭和年代の建築史の中でよく知られる事柄となっている。そしてこの逓信省営繕は質の高い標準設計を生み出しているが[1]、日本を代表する建築家とともに多くの優秀な設計者が作品を残した事実が知られている。

こうして生み出された建築は、逓信建築と総称されている。

逓信省は、つねに時代の最前線の課題にかかわったこともあり、若いスタッフに常に新しく自由な発想をもとめ[2]、その伝統は後継組織の戦略等にも引き継がれている。

概要

明治4年(1871年)の日本の近代郵便制度開始とともに、全国各地に郵便役所(現在の郵便局)等が設置される。これらの庁舎は当初民間から江戸期の建物を借り上げて使用するほか、大蔵省の営繕寮や工部省の営繕局の管轄の技師によって建築されたものを使用していた[3]

1885年、逓信省発足以降は、翌年の1886年には会計局に用度課用度係を設置し営繕事務を掌握、この係に発足2年後の1987年(明治19年)に佐立七次郎吉井茂則らを逓信四等技師として雇い営繕組織が形成されていく。以後、それらの業務施設のほとんどを内部の営繕職員(技師)たちによって設計され、建てられていく[4]。 1902年には総務局会計課に営繕係を、1903年には経理局に営繕課を設置。

以来、逓信省から後進の電電公社郵政省まで、この組織の建築設計に携わった人たちの中からは、近・現代の建築史に名を連ねる建築家が輩出している[5]

この経理局営繕課は1910年に大臣官房経理課調度係に吸収されるが、1913年には経理局が復活し再び営繕課となっている。以降1942年に総務局に組織変更され、1943年に逓信省が逓信院になると工務局、1946年には総裁官房に設置された。

戦後は、戦時中に被災した逓信事業関係施設の復興促進のために、営繕機構を再編成することとなる。 1946年(昭和21年)1月31日の逓信院官制の改正に際して、それまで営繕を担当してきた工務局営繕課や各課の営繕係を廃止し、営繕部を新設した。 当初は大臣官房の一部として設置されたが、4月1日に独立の部として再設置された。 営繕部は国有財産および営繕に関する事項を管掌し、部内に管財・設計・施行の三課が置かれた。 1949年(昭和24年)6月1日、逓信省が郵政省電気通信省とに分割されると、それぞれ大臣官房に建築部が置かれた。

特徴

建築の文化文明とともに国家の中枢を省が担うというところからこの省にエリートな建築家が集まっていった。彼らは国の政策を担っているつもりで当時の近代建築運動にも共感を示し、日本の近代建築におけるひとつの軸を形成したことが知られている。大きな政府の強い政策のもとに結集したある種のエリート集団であることでことのほか自由な思想が保障されていたので、組織の論理に従うのではなく自分の価値観そのものが時代と国を映し出すのであり、信念を表現することが社会のためになる、という確信を持ちえるエリートが存在しえた状況であった[6]

こうして、佐立、吉井以降も特に内田四郎渡辺仁らが加わってからは、逓信建築は彼らが切り開いた大正期モダニズムの時代にふさわしい建築へと発展した。その後も三橋三郎が1889年に、大島三郎が1917年に、岩元禄と森泰治が1918年に、吉田鉄郎が1919年に、山田守と中山広吉が1920年が入省してくる。そこは官庁営繕というより自由な建築デザインの揺籃がみられ、特に1910年代は黄金時代の始まりとみられている[7]

脚注

  1. ^ 向井覺編著『逓信建築年表1885~1949』東海大学出版会、2008
  2. ^ https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/81/721/81_723/_pdf
  3. ^ 逓信省の本庁舎は工部省営繕課設計で東京木挽町に1885年(明治18年)に竣工したが、明治40年に焼失している
  4. ^ https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/81/721/81_723/_pdf
  5. ^ http://www.conso.jp/pdf/techno/archives/a2011-12.pdf
  6. ^ 小原 誠, 丹羽 和彦 「分離派風局舎」と逓信省営繕の建築 : 大正後期の逓信省建築に関する研究 その2 日本建築学会計画系論文集 / 64 巻 (1999) 516 号
  7. ^ 内田祥三もまた当時、その自由な空気と、設計能力の高いスタッフが集まっていたことを証言しており、後に子息内田祥哉が後進の電電公社に入社している。(インタヴュー 吉田鐵郎の平凡、官庁営繕の公共性 (特集 平凡建築) 内田 祥哉 , 長島 明夫 建築と日常 (5), 6-20, 2018)

参考文献

  • 逓信省五十年略史
  • 郵政建築 逓信からの軌跡 日本郵政株式会社 監修 建築画報社 2008
  • 郵政省編『続逓信事業史』第9巻(財団法人前島会、1962年)
  • 郵政省編『続逓信事業史』第1巻(財団法人前島会、1963年)

関連項目