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桑山は、社長に就任すると、財務状況の改善に敏腕を振るい、各部門から上申される投資案件、経費支出をことごとく否決したり、差し戻したりと、経営の引き締めに取り組んだ。そのため、[[バブル経済]]下にあっても、京王は投資には極めて慎重であった一方、[[バブル崩壊]]のダメージもまったく受けなかった。
桑山は、社長に就任すると、財務状況の改善に敏腕を振るい、各部門から上申される投資案件、経費支出をことごとく否決したり、差し戻したりと、経営の引き締めに取り組んだ。そのため、[[バブル経済]]下にあっても、京王は投資には極めて慎重であった一方、[[バブル崩壊]]のダメージもまったく受けなかった。


また、桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げて、[[京王グループ]]全体の経営改革を促し、企業価値の向上に努めた。長年親しまれた社紋や、電車やバスのカラーリングも改め、新たロゴマークや、コーポレートカラーを採用し、企業イメージの向上を目指した。結果、京王帝都電鉄以下、グループ各社の財務状況など経営内容は優良化していった
また、桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げて、[[京王グループ]]全体の経営改革を促し、企業価値の向上に努めた。長年親しまれた社紋や、電車やバスのカラーリングも改め、新たロゴマークや、コーポレートカラーを採用し、企業イメージの刷新を目指した。結果、京王帝都電鉄以下、グループ各社の財務状況など経営内容は優良化し、連結決算では、旧・東急系四社の中でも、京浜急行電鉄を上回る営業収益を記録してい


桑山は、自身の後継として、メーンバンクの[[住友信託銀行]]から、企業財務の専門家である[[西山廣一]]常務を引き抜き、副社長に据えた。桑山は、[[1993年]]、社長職を西山に託して、取締役会長に就任。その後、相談役、次いで最高顧問に退いた。
桑山は、自身の後継として、メーンバンクの[[住友信託銀行]]から、企業財務の専門家である[[西山廣一]]常務を引き抜き、副社長に据えた。桑山は、[[1993年]]、社長職を西山に託して、取締役会長に就任。その後、相談役、次いで最高顧問に退いた。


京王グループ各社の取締役のほか、[[よみうりランド]]、[[東急車輛製造]]、[[東急エージェンシー]]などの社外取締役もつとめた。
京王グループ各社の取締役のほか、[[よみうりランド]]、[[東急車輛製造]]、[[東急レクリエーション]]、[[東急エージェンシー]]などの社外取締役もつとめた。


[[2010年]]12月、[[骨髄異形成症候群]]で死去。享年85。
[[2010年]]12月、[[骨髄異形成症候群]]で死去。享年85。

2018年7月12日 (木) 22:34時点における版

桑山 健一(くわやま けんいち、1925年2月21日 - 2010年12月30日)は、昭和平成期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第6代)。経営改革を強力に推進し、京王グループを優良企業に押し上げた実績から、「京王の中興の祖」といわれる。

来歴・人物

東京都生まれ。1949年早稲田大学専門部を卒業し、京王帝都電鉄に入社した。当時、京王帝都電鉄は、東京急行電鉄(東急)から分離独立したばかりで、桑山たちは、総合職1期生として入社した。

設立当初の京王帝都電鉄は、大手私鉄の中でも、一際目立って経営基盤が脆弱で、財務状況も芳しくなかった。毎期の決算の度に、いつも、旧・東急系の兄弟会社てある東急、小田急電鉄京浜急行電鉄と比較され、万年最下位の有り様に、とくに経理部門の社員たちは、悔しい思いをしてきたという。桑山自身もそうであり、若い時分から、悔しさを情熱に変えて仕事に励んでいた。

企画部長時代には、社長の経営方針に納得できず、「社長には経営者としての資質がない。将来の会社のことは、私たちが考えます」と啖呵をきったほどの激烈ぶりであった。

1971年、取締役に就任。取締役副社長を経て、1986年箕輪圓社長の会長就任に伴い、第6代取締役社長に昇格した。

桑山は、社長に就任すると、財務状況の改善に敏腕を振るい、各部門から上申される投資案件、経費支出をことごとく否決したり、差し戻したりと、経営の引き締めに取り組んだ。そのため、バブル経済下にあっても、京王は投資には極めて慎重であった一方、バブル崩壊のダメージもまったく受けなかった。

また、桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げて、京王グループ全体の経営改革を促し、企業価値の向上に努めた。長年親しまれた社紋や、電車やバスのカラーリングも改め、新たなロゴマークや、コーポレートカラーを採用し、企業イメージの刷新を目指した。結果、京王帝都電鉄以下、グループ各社の財務状況など経営内容は優良化し、連結決算では、旧・東急系四社の中でも、京浜急行電鉄を上回る営業収益を記録している。

桑山は、自身の後継として、メーンバンクの住友信託銀行から、企業財務の専門家である西山廣一常務を引き抜き、副社長に据えた。桑山は、1993年、社長職を西山に託して、取締役会長に就任。その後、相談役、次いで最高顧問に退いた。

京王グループ各社の取締役のほか、よみうりランド東急車輛製造東急レクリエーション東急エージェンシーなどの社外取締役もつとめた。

2010年12月、骨髄異形成症候群で死去。享年85。

逸話

  • 京王線は、もともと新宿駅から調布駅までの複々線化を計画し、既に、新宿駅~笹塚駅間については、京王新線を建設して、完成させていた。京王社内でも、複々線化を推進する意見が大勢を占めていたが、社長の桑山が鶴の一声で複々線化計画を白紙撤回させ、通勤電車の10両編成化で混雑緩和を図る対応に転換した。将来の沿線人口が大幅に増加しないことを見越し、過大な投資、会社や利用者の負担を回避するための決断であった。しかし、そのため、京王線は、朝ラッシュ時間帯の混雑と遅延が慢性化し、京王はそれに対して、具体的な改善策がなく、旅客に苦痛や不便を強いてるとの批判がある。
  • 東京都交通局は、都営新宿線と相互直通運転を行う京王線を偏軌から標準軌に改軌するよう、たびたび要請を行った。改軌が実現すれば、千葉県方面で整備が計画されていた鉄道網や成田国際空港との接続が可能になるからであった。しかし、桑山は、千葉県方面発着の輸送需要、費用対効果を冷静に判断し、巨額の財政負担と輸送への支障を理由に、この提案を拒否した。しかし、このため、京王線と都営新宿線は、他線との相互直通ができないガラパゴス路線と化してしまう。
  • 小田急電鉄が、鉄道旅客の利便性の向上や、商業施設の充実のため、新宿駅西口の総合開発を計画した際、京王にも参画を要請した。桑山は「金がかかる」とそれを断わり、小田急の計画そのものを頓挫させた。
  • こうした桑山の慎重な投資判断や、コストへの神経質さから、京王を「ケチ王」と揶揄する声も聞かれる。