「マルクス・アティリウス・レグルス (紀元前294年の執政官)」の版間の差分

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レグルスは[[紀元前295年]][[センティヌムの戦い]]([[サムニウム戦争#第3次サムニウム戦争|第三次サムニウム戦争]])において、勝利のために「自らを犠牲として神に捧げた」<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、X 26-30</ref>プレブス出身の[[プブリウス・デキウス・ムス (紀元前312年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]の後任として、翌年の執政官に就任した。
レグルスは[[紀元前295年]][[センティヌムの戦い]]([[サムニウム戦争#第3次サムニウム戦争|第三次サムニウム戦争]])において、勝利のために「自らを犠牲として神に捧げた」<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、X 26-30</ref>プレブス出身の[[プブリウス・デキウス・ムス (紀元前312年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]の後任として、翌年の執政官に就任した。


紀元前294年、執政官としてレグルスは[[サムニウム]]および[[アプリア|プッリャ州]]と戦い、インテラムナ([[:en:Interamna Praetutiana|en]])で勝利した。[[ティトゥス・リウィウス]]は[[凱旋式]]の実施は[[元老院]]から拒否されたとしているが<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、X 32-33、35-36</ref>、[[凱旋式のファスティ]]にはレグルスが凱旋指揮を実施したと記録されている<ref>[http://www.attalus.org/translate/fasti.html#p100 ''Fasti triumphales'']</ref>。
紀元前294年、執政官としてレグルスは[[サムニウム]]および[[アプリア|プッリャ州]]と戦い、インテラムナ([[:en:Interamna Praetutiana|en]])で勝利した。[[ティトゥス・リウィウス]]は[[凱旋式]]の実施は[[元老院]]から拒否されたとしているが<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、X 32-33、35-36</ref>、[[凱旋式のファスティ]]にはレグルスが凱旋を実施したと記録されている<ref>[http://www.attalus.org/translate/fasti.html#p100 ''Fasti triumphales'']</ref>。


==一族==
==一族==
レグルスは、[[第一次ポエニ戦争]]の悲劇の将軍として知られる同名の[[マルクス・アティリウス・レグルス]]の父親として有名であり、おそらく[[紀元前257年]]と[[紀元前250年]]に執政官をめた[[ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス]]も息子である。少なくとも孫のうち二人が執政官に就任している。[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]の親戚である[[アウルス・アティリウス・カラティヌス]]は父方の親戚である。
レグルスは、[[第一次ポエニ戦争]]の悲劇の将軍として知られる同名の[[マルクス・アティリウス・レグルス]]の父親として有名であり、おそらく[[紀元前257年]]と[[紀元前250年]]に執政官をめた[[ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス]]も息子である。少なくとも孫のうち二人が執政官に就任している。[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]の親戚である[[アウルス・アティリウス・カラティヌス]]は父方の親戚である。


==参考資料==
==参考資料==

2018年6月20日 (水) 18:01時点における版


マルクス・アティリウス・レグルス
Marcus Atilius Regulus
(M. Atilius M .f. M. n. Regulus)
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 アティリウス氏族
官職 執政官(紀元前294年)
後継者 マルクス・アティリウス・レグルス
ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス
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マルクス・アティリウス・レグルスラテン語: Marcus Atilius Regulus, 生没年不詳)は共和政ローマプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前294年執政官(コンスル)を務めたが[1]アティリウス氏族では二人目の執政官であった.[2]

経歴

レグルスは紀元前295年センティヌムの戦い第三次サムニウム戦争)において、勝利のために「自らを犠牲として神に捧げた」[3]プレブス出身のプブリウス・デキウス・ムスの後任として、翌年の執政官に就任した。

紀元前294年、執政官としてレグルスはサムニウムおよびプッリャ州と戦い、インテラムナ(en)で勝利した。ティトゥス・リウィウス凱旋式の実施は元老院から拒否されたとしているが[4]凱旋式のファスティにはレグルスが凱旋式を実施したと記録されている[5]

一族

レグルスは、第一次ポエニ戦争の悲劇の将軍として知られる同名のマルクス・アティリウス・レグルスの父親として有名であり、おそらく紀元前257年紀元前250年に執政官を務めたガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスも息子である。少なくとも孫のうち二人が執政官に就任している。クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスの親戚であるアウルス・アティリウス・カラティヌスは父方の親戚である。

参考資料

  1. ^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、X 32.1
  2. ^ Broughton, T. Robert S.: The Magistrates Of The Roman Republic. Vol. 1: 509 B.C. - 100 B.C.. Cleveland, Ohio: Case Western Reserve University Press, 1951. Reprint 1968. (Philological Monographs. Edited by the American Philological Association. vol. 15, part 1), p. 179
  3. ^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、X 26-30
  4. ^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、X 32-33、35-36
  5. ^ Fasti triumphales

関連項目

公職
先代
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌス V
プブリウス・デキウス・ムス IV
執政官
同僚:ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス II
紀元前294年
次代
ルキウス・パピリウス・クルソル I
スプリウス・カルウィリウス・マクシムス I