「デーン人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
5行目: 5行目:
[[スカンジナビア半島]]から到来し、[[ユトランド半島]]へ進出した。それまでの先住民である[[アングル人]]、[[サクソン人]]、[[ジュート人]]を圧倒し彼らの[[ブリテン島]]移住の誘因を作った。
[[スカンジナビア半島]]から到来し、[[ユトランド半島]]へ進出した。それまでの先住民である[[アングル人]]、[[サクソン人]]、[[ジュート人]]を圧倒し彼らの[[ブリテン島]]移住の誘因を作った。


その後、[[ヴァイキング]]として活発に[[海賊]]活動を行った。[[9世紀]]には[[七王国]]時代のイングランドに侵攻し猖獗をきわめた。ウェセックス王のアルフレッド([[アルフレッド大王]])は、デーン人の戦術を学習して[[城塞]]をつらねた防衛線を築き、ねばり強く抵抗した末、878年、デーン人とのあいだに[[ウェドモーアの和議]]を結び、ブリテン島東岸の[[デーンロウ]]と称される地域にデーン人の定住地を押し込めることに成功、さらに来住したデーン人たちの[[キリスト教]]への改宗にも力を注いだ<ref name="horigome_099">堀米(1979)pp.99-100</ref>。
その後、[[ヴァイキング]]として西ヨーロッパ一帯に[[海賊]]活動を始めた。[[9世紀]]には[[七王国]]時代のイングランドに侵攻し猖獗をきわめた。ウェセックス王のアルフレッド([[アルフレッド大王]])は、デーン人の戦術を学習して[[城塞]]をつらねた防衛線を築き、ねばり強く抵抗した末、878年、デーン人とのあいだに[[ウェドモーアの和議]]を結び、ブリテン島東岸の[[デーンロウ]]と称される地域にデーン人の定住地を押し込めることに成功、さらに来住したデーン人たちの[[キリスト教]]への改宗にも力を注いだ<ref name="horigome_099">堀米(1979)pp.99-100</ref>。


[[10世紀]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[デンマーク王国]]としてデーン人を包括した統一国家を造り上げる。([[デンマークの歴史#中世]])
[[10世紀]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[デンマーク王国]]としてデーン人を包括した統一国家を造り上げる。([[デンマークの歴史#中世]])

2018年4月2日 (月) 14:35時点における版

デーン人(デーンじん。デンマーク語: Daner)は、現在のデンマークおよびスウェーデンスカニア地方に居住した北方系ゲルマン人ノルマン人)の一派である。ヴァイキングとしてイングランドおよび西ヨーロッパ一帯に進入し、その後、大帝国を建設した。

歴史

スカンジナビア半島から到来し、ユトランド半島へ進出した。それまでの先住民であるアングル人サクソン人ジュート人を圧倒し彼らのブリテン島移住の誘因を作った。

その後、ヴァイキングとして西ヨーロッパ一帯に海賊活動を始めた。9世紀には七王国時代のイングランドに侵攻し猖獗をきわめた。ウェセックス王のアルフレッド(アルフレッド大王)は、デーン人の戦術を学習して城塞をつらねた防衛線を築き、ねばり強く抵抗した末、878年、デーン人とのあいだにウェドモーアの和議を結び、ブリテン島東岸のデーンロウと称される地域にデーン人の定住地を押し込めることに成功、さらに来住したデーン人たちのキリスト教への改宗にも力を注いだ[1]

10世紀キリスト教に改宗し、デンマーク王国としてデーン人を包括した統一国家を造り上げる。(デンマークの歴史#中世

1013年、デンマーク王のスヴェン王イングランド王になる。1016年、スヴェンの子カヌート大王がイングランド王に即位。後にデンマーク王、ノルウェー王にも即位し、北海帝国を築き上げた。カヌート大王の死後、帝国は崩壊、多くのデーン人は現在のデンマークに留まり、海外へ移住したデーン人は、その地の民族に同化していった。

中世までのデーン人の国家は、たとえ異民族であっても、デンマーク王に従属し統率下に入ればデーン人と呼ばれ、そのような人々が一種の政治的な共同体を形作っていた。

近代に入ると、国民国家の成立と共にデンマークのナショナリズム・民族意識が高まり、今日のような「デンマーク人」としての国家となった。

関連項目

  1. ^ 堀米(1979)pp.99-100