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赤穂城明け渡し後は京都に戻り、大石内蔵助ら同志と密議をこらした。仇討ち決定後の元禄15年([[1702年]])9月、十内は[[瀬尾孫左衛門]]とともに江戸へ下り、仙北十庵を名乗って大石内蔵助の嫡男[[大石主税]]や養子幸右衛門と同居している。
赤穂城明け渡し後は京都に戻り、大石内蔵助ら同志と密議をこらした。仇討ち決定後の元禄15年([[1702年]])9月、十内は[[瀬尾孫左衛門]]とともに江戸へ下り、仙北十庵を名乗って大石内蔵助の嫡男[[大石主税]]や養子幸右衛門と同居している。


12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して[[吉田忠左衛門]]、[[間喜兵衛]]とともに裏門隊大将大石主税の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、忠左衛門とともにこれにあたり、十内は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の[[土屋主税]]邸で家士が騒いでいるので、十内は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。十内はその後、二人の敵を倒している。
12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して[[吉田忠左衛門]]、[[間喜兵衛]]とともに裏門隊大将大石主税の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、忠左衛門とともにこれにあたり、十内は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の[[土屋逵直|土屋主税]]邸で家士が騒いでいるので、十内は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。十内はその後、二人の敵を倒している。


討ち入り後は大石内蔵助らとともに[[細川綱利|細川越中守]]屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年([[1703年]])2月4日、幕府の命により切腹。享年61。
討ち入り後は大石内蔵助らとともに[[細川綱利|細川越中守]]屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年([[1703年]])2月4日、幕府の命により切腹。享年61。

2006年7月2日 (日) 04:22時点における版

小野寺 秀和 (おのでら ひでかず (十内 じゅうない)寛永20年(1643年)-元禄16年2月4日1703年3月20日)))は江戸時代武士播磨国赤穂藩士、京都留守居番、150石役料70石。赤穂浪士の一人。父は笠間藩時代の浅野家家臣小野寺又八。母は多川九左衛門女。

実子がなかったので姉(貞立尼)の子の幸右衛門大高源五の実弟)を養子とした。赤穂浪士一党には岡野金右衛門間瀬久太夫孫九郎父子、中村勘助など小野寺家の縁戚が多い。

武道のほか和歌古典儒学に通じ、儒者伊藤仁斎と親しく交わっている。妻丹とは仲睦まじいことで知られ夫婦で歌人金勝慶安に師事し数々の和歌を残している。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。京都でこの凶報に接した十内は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で赤穂へ駆けつけた。赤穂城開城では大石内蔵助の右腕として活動。幕府目付荒木十左衛門榊原采女の接待役にあたった。

赤穂城明け渡し後は京都に戻り、大石内蔵助ら同志と密議をこらした。仇討ち決定後の元禄15年(1702年)9月、十内は瀬尾孫左衛門とともに江戸へ下り、仙北十庵を名乗って大石内蔵助の嫡男大石主税や養子幸右衛門と同居している。

12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田忠左衛門間喜兵衛とともに裏門隊大将大石主税の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、忠左衛門とともにこれにあたり、十内は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の土屋主税邸で家士が騒いでいるので、十内は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。十内はその後、二人の敵を倒している。

討ち入り後は大石内蔵助らとともに細川越中守屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により切腹。享年61。

十内の死後、丹は京都本圀寺で絶食して自害した。

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