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2015年1月22日 (木) 17:20時点における版

小原 鑑元(おばら あきもと、生年不詳 - 弘治2年5月8日1556年6月15日))は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。通称、神五郎、四郎左衛門尉、遠江守、遠江入道宗惟。小原右並(すけなみ、大友義右の代からの家臣と思われる)の子。阿南氏の庶流で阿南荘小原(現大分県由布市)を本貫とする。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。

大友氏の家臣として

天文19年(1550年二階崩れの変の際、義鑑の遺書に雄城治景吉岡長増田北鑑生臼杵鑑続志賀親守とともに連署。以後は大友義鎮の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武佐伯惟教らとともに攻め肥後国を平定した。天文20年(1551年南関城に入り肥後方分となる。

姓氏対立事件

しかし、弘治2年(1556年)5月、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。

他紋衆の挙兵は大友氏館のある府内でも発生し、一時は当主義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となったが、同紋衆の働きにより、ともに挙兵した本庄新左衛門尉統綱(むねつな)、中村長直(ながなお)らは豊後国で討ち取られ、佐伯惟教伊予国に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。

関連項目