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'''宇佐美 灊水'''(うさみ しんすい、[[宝永]]7年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[1710年]][[2月21日]]) - [[安永]]5年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]([[1776年]][[9月21日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[儒学者]]。[[諱]]は''''''。[[字]]は'''子迪'''。通称は'''恵助'''[[雅|号]]は灊水。[[宇佐美習翁]]の子。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[上総国]][[夷隅郡]][[長者町]](現 [[千葉県]][[いすみ市]])出身。「夷隅」は「夷'''灊'''」とも表記され、[[夷隅川]]のことを「灊水」と称したことからこれを号にしたと言われている。
[[上総国]][[夷隅郡]]出身。「夷隅」は「夷灊」とも表記され、[[夷隅川]]のことを「灊水」と称したことからこれを号にしたと言われている。学問を愛好した父親の影響を受け、17歳の時に[[江戸]]に出て[[荻生徂徠]]の門人となる。ところが、3年後に徂徠が没したため、[[太宰春台]]・[[大内熊耳]]・[[板倉帆邱]]ら同門の先輩・友人らの指導を受けて研究を進めた。徂徠晩年の門人であったが、その遺著の刊行に尽力するところが大きく、門人たちの間でも重んじられた。一度板倉帆邱を連れて上総に帰国し、後に江戸に再び出て塾を開いた。上総時代、[[荻生北渓]]が[[山井]]の遺著である『[[七経孟子文]]』の校訂を行った際にこれを助けている。[[寛延]]元年([[1748年]])以後、[[松江藩]]に仕えて[[江戸藩邸]]にて[[世子]]の教育を掌った。[[明和]]3年([[1766年]])に『輔儲論』を著し、世子教育のあり方について論じている。その他の著書としては『聖教類語和解』・『社倉考』・『事務談』などが知られ、門人に[[海保青陵]]がいる。


学問を愛好した父親の影響を受け、17歳の時に[[江戸]]に出て[[荻生徂徠]]の門人となる。ところが、3年後に徂徠が没したため、[[太宰春台]]・[[大内熊耳]]・[[板倉帆邱]]ら同門の先輩・友人らの指導を受けて研究を進めた。徂徠晩年の門人であったが、その遺著の刊行に尽力するところが大きく、門人たちの間でも重んじられた。一度板倉帆邱を連れて上総に帰国し、後に江戸に再び出て塾を開いた。上総時代、徂徠の弟の[[荻生北渓]]が[[山井崑崙]]の遺著である『[[七経孟子文]]』の校訂を行った際にこれを助けている。
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[[寛延]]元年([[1748年]])以後、[[松江藩]]に仕えて[[江戸藩邸]]にて[[世子]]の教育を掌った。[[明和]]3年([[1766年]])に『輔儲論』を著し、世子教育のあり方について論じている。その他の著書としては『聖教類語和解』・『社倉考』・『事務談』などが知られ、門人に[[海保青陵]]がいる。

息子がいたが才能に恵まれず一度は[[片山兼山]]を[[養子]]としたが、兼山が徂徠の学説を批判したことからこれを追って、自分の甥を改めて養子とした(兼山は後に[[折衷学派]]の祖の1人とされ)。


安永5年(1776年)に67歳で没し、墓所は[[東京都]][[新宿区]]の[[戒行寺]]にある。
安永5年(1776年)に67歳で没し、墓所は[[東京都]][[新宿区]]の[[戒行寺]]にある。

2014年7月20日 (日) 15:43時点における版

宇佐美 灊水(うさみ しんすい、宝永7年1月23日1710年2月21日) - 安永5年8月9日1776年9月21日))は、江戸時代中期の儒学者子迪。通称は恵助は灊水。宇佐美習翁の子。

経歴

上総国夷隅郡長者町(現 千葉県いすみ市)出身。「夷隅」は「夷」とも表記され、夷隅川のことを「灊水」と称したことからこれを号にしたと言われている。

学問を愛好した父親の影響を受け、17歳の時に江戸に出て荻生徂徠の門人となる。ところが、3年後に徂徠が没したため、太宰春台大内熊耳板倉帆邱ら同門の先輩・友人らの指導を受けて研究を進めた。徂徠晩年の門人であったが、その遺著の刊行に尽力するところが大きく、門人たちの間でも重んじられた。一度板倉帆邱を連れて上総に帰国し、後に江戸に再び出て塾を開いた。上総時代、徂徠の弟の荻生北渓山井崑崙の遺著である『七経孟子攷文』の校訂を行った際にこれを助けている。

寛延元年(1748年)以後、松江藩に仕えて江戸藩邸にて世子の教育を掌った。明和3年(1766年)に『輔儲論』を著し、世子教育のあり方について論じている。その他の著書としては『聖教類語和解』・『社倉考』・『事務談』などが知られ、門人に海保青陵がいる。

息子がいたが才能に恵まれず一度は片山兼山養子としたが、兼山が徂徠の学説を批判したことからこれを追って、自分の甥を改めて養子とした(兼山は後に折衷学派の祖の1人とされた)。

安永5年(1776年)に67歳で没し、墓所は東京都新宿区戒行寺にある。

参考文献

  • 市古貞次 他編『国書人名辞典 1』(岩波書店、1993年) ISBN 978-4-000-80081-5
  • 石山洋 他編『江戸文人辞典 国学者・漢学者・洋学者』(東京堂出版、1996年) ISBN 978-4-490-10427-1