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'''田目皇子'''(ため の みこ、[[敏達天皇]]元年(572年)? - 没年不詳)は、[[大和時代]]の[[皇族]]。または多米王とも呼ばれる<ref name="aa">『[[古事記]]』</ref>。 |
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'''田目皇子'''(ため の みこ、生没年不詳)は、[[大和時代]]の[[皇族]]。または多米王とも呼ばれる<ref name="aa">『[[古事記]]』</ref>。 |
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2014年3月11日 (火) 08:26時点における版
田目皇子(ため の みこ、生没年不詳)は、大和時代の皇族。または多米王とも呼ばれる[1]。
概要
用明天皇の第一皇子。母は蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)[1]または意富芸多志比売[2]。子に男子一人(一説では高向王[3])と佐富女王がいる。聖徳太子の異母兄。
用明天皇の死後、継母の穴穂部間人皇女(聖徳太子の母)と結婚したという[4]。穴穂部間人皇女は佐富女王を産んだ。
脚注
- ^ a b 『古事記』
- ^ 欽明天皇の妃堅塩媛を誤伝したものとされる(日本古典文学大系新装版『日本書紀』の頭注参照)。
- ^ 鈴木真年『史略名称訓義』皇極天皇条、中田憲信『皇胤志』(いずれも宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年、110頁 による)
- ^ 『聖徳太子平氏伝雑勘文』 上ノ三 上宮太子御子孫竝后等事条 所引にある『上宮記』逸文に「多米王 父ハ用明 母ハ蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王生兒 佐富女王 一也」とある。
外部リンク