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|caption=李元翼肖像画(1590年作) |
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'''李 元翼'''(イ・ウォニク({{lang|ko|이원익}})、[[1547年]](明宗2年) - [[1634年]](仁祖12年))は、[[李氏朝鮮]]の重臣。[[字]]は公励、号は梧里、[[諡号]]は文忠。本貫は全州で、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴(咸川君)。姻戚には、尹鑴、許穆、李舜臣などがおり、母方の祖先には、鄭昌孫がいる。また壬辰倭乱の後には、完平府院君の称号と清白吏(청백리)の1人として記録された。 |
'''李 元翼'''(イ・ウォニク({{lang|ko|이원익}})、[[1547年]](明宗2年) - [[1634年]](仁祖12年))は、[[李氏朝鮮]]の重臣。[[字]]は公励、号は梧里、[[諡号]]は文忠。本貫は全州で、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴(咸川君)。姻戚には、[[尹鑴]]、[[許穆]]、[[李舜臣]]などがおり、母方の祖先には、[[鄭昌孫]]がいる。また[[壬辰倭乱]]の後には、完平府院君の称号と[[清白吏]](청백리)の1人として記録された。 |
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蔭叙によって承議郞となり1569年(宣祖2年)に科挙に及第して大司憲、吏曹判書、左議政を経て領議政となった。党派は東人で、分党すると南人の側につく。また学問の面では、李滉学統を南人に継承させるなどした。 |
[[蔭叙]]によって承議郞となり1569年(宣祖2年)に[[科挙]]に及第して大司憲、吏曹判書、左議政を経て領議政となった。党派は[[東人]]で、分党すると[[南人]]の側につく。また学問の面では、李滉学統を南人に継承させるなどした。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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===初期の活動=== |
===初期の活動=== |
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====出生と家系==== |
====出生と家系==== |
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李元翼は宗親の出自で、咸川都正であった父李億載と司憲府監察鄭錙(東莱鄭氏)の娘鄭氏の次男として出生した。ちなみに王族としての待遇は父代で終わっており、また彼は背が低かった。太宗の庶子益寧君から四世孫にあたる。曾祖父は秀泉君(李貞恩)、祖父は青杞君(李彪)、叔父は李億舜と李億壽である。また母方の祖先は癸酉靖難、世祖反正を助け、領議政であった金礩と鄭昌孫である。 |
李元翼は宗親の出自で、咸川都正であった父李億載と司憲府監察[[鄭錙]]([[東莱鄭氏]])の娘鄭氏の次男として出生した。ちなみに王族としての待遇は父代で終わっており、また彼は背が低かった。太宗の庶子[[益寧君]]から四世孫にあたる。曾祖父は[[秀泉君]](李貞恩)、祖父は[[青杞君]](李彪)、叔父は[[李億舜]]と[[李億壽]]である。また母方の祖先は[[癸酉靖難]]、世祖反正を助け、[[領議政]]であった[[金礩]]と[[鄭昌孫]]である。 |
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====少年期と青年期==== |
====少年期と青年期==== |
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1562年(明宗17年)四部学堂の一つ、東学に入学し、1564年(明宗19年)生員試に合格し、蔭補によって承議郞となり、その後、進士試も受け合格した。 |
1562年(明宗17年)[[四部学堂]]の一つ、東学に入学し、1564年(明宗19年)生員試に合格し、蔭補によって承議郞となり、その後、進士試も受け合格した。 |
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====官吏生活==== |
====官吏生活==== |
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[[File:Letter of Yi Won-ik.jpg|thumb|left|140px|李元翼直筆簡札]] |
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1569年(宣祖2年)文科に合格して翌年承文院正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、李珥、[[柳成龍]]とは知り合う。 |
1569年(宣祖2年)文科に合格して翌年[[承文院]]正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、[[李珥]]、[[柳成龍]]とは知り合う。 |
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[[File:Ohri Yi Won-ik of 1580.jpg|thumb|right|130px]] |
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1573年(宣祖6年)成均館典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。翌年、礼曹佐郎に選抜され、黄海道都事、軍器寺判官を歴任した。また黄海道都事の頃、黄海道観察使であった[[李珥]]の下で忠実に働いたことで、1576年(宣祖9年)に[[李珥]]の推薦で司諫院正言となる。 |
1573年(宣祖6年)[[成均館]]典籍に異動し聖節賀正官になり、[[明]]への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。翌年、[[礼曹]]佐郎に選抜され、[[黄海道]]都事、[[軍器寺]]判官を歴任した。また[[黄海道]]都事の頃、[[黄海道]]観察使であった[[李珥]]の下で忠実に働いたことで、1576年(宣祖9年)に[[李珥]]の推薦で[[司諫院]]正言となる。 |
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1578年(宣祖11年)玉堂に入り、弘文館修撰となり、その後も、弘文館校理、司憲府持平、承政院同副承旨1583年(宣祖16年)承政院右副承旨となるが、王子師傅河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)吏曹参判権克礼の推薦で安州牧使となって、民の暮らしの安定のために尽くした。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。 |
1578年(宣祖11年)玉堂に入り、[[弘文館]]修撰となり、その後も、[[弘文館]]校理、[[司憲府]]持平、[[承政院]]同副承旨1583年(宣祖16年)[[承政院]]右副承旨となるが、王子師傅河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)[[吏曹]]参判[[権克礼]]の推薦で安州牧使となって、民の暮らしの安定のために尽くした。更に[[刑曹]]参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。 |
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===政治活動=== |
===政治活動=== |
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====壬辰倭乱==== |
====壬辰倭乱==== |
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1592年(宣祖25年)に[[文禄・慶長の役]]が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した[[祖承訓]]が[[小西行長]]の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。 |
1592年(宣祖25年)に[[文禄・慶長の役]]が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち[[定州]]で兵を募った。正憲を加えられ、[[観察使]]となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した[[祖承訓]]が[[小西行長]]の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。 |
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翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である[[李如松]]の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、[[李恒福]]の後任として右議政となり四道都体察使を兼ね。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した全羅道兵馬節度使の[[李福男]]を讒言により革職して笞刑に処し、後任に[[朴晋]]を任じた。(その後、李福男は[[南原の戦い]]で戦死) |
翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である[[李如松]]の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、[[李恒福]]の後任として[[右議政となり四道都体察使を兼ね。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した[[全羅道]]兵馬節度使の[[李福男]]を讒言により革職して笞刑に処し、後任に[[朴晋]]を任じた。(その後、李福男は[[南原の戦い]]で戦死) |
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1598年(宣祖31年)、[[稷山の戦い]]で日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理[[楊鎬]]の功績を本国へ知らせる陳奏辨誣使を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の[[丁応泰]]が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の[[李山海]]らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。1600年に左議政と都体察使に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。一方門下生である許穆に孫娘を与えた。また壬辰倭乱の頃から、李舜臣を評価し、李舜臣が柳成龍を批判する際にも、唯一支持した。 |
1598年(宣祖31年)、[[稷山の戦い]]で日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理[[楊鎬]]の功績を本国へ知らせる陳奏辨誣使を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の[[丁応泰]]が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に[[領議政]][[柳成龍]]をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、[[北人派]]である前領議政の[[李山海]]らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、[[柳成龍]]の排撃を防いだ。1600年に[[左議政]]と都体察使に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。一方門下生である[[許穆]]に孫娘を与えた。また[[壬辰倭乱]]の頃から、[[李舜臣]]を評価し、[[李舜臣]]が[[柳成龍]]を批判する際にも、唯一支持した。 |
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[[File:Heo Mok 03.gif|thumb|left|140px|孫娘婿である[[許穆]]]] |
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[[File:Kim Yuk 01.jpg|thumb|right|150px| |
[[File:Kim Yuk 01.jpg|thumb|right|150px|[[金堉]]]] |
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====光海君時代==== |
====光海君時代==== |
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1970年代に李元翼の遺影が一時盗難されたが、盗人たちは、祠堂の中に捨てており、それを李元翼の13代目の子孫である李昇珪(이승규)が拾った。13代孫の延世大学校教授の李昇珪は自分の私財を喜捨して李元翼のための博物館である忠賢博物館(충현박물관)を建てた。 |
1970年代に李元翼の遺影が一時盗難されたが、盗人たちは、祠堂の中に捨てており、それを李元翼の13代目の子孫である李昇珪(이승규)が拾った。13代孫の延世大学校教授の李昇珪は自分の私財を喜捨して李元翼のための博物館である忠賢博物館(충현박물관)を建てた。 |
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== 血縁関係 == |
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[[File:이원익의 유언.jpg|thumb|right|180px|子孫に残した遺言([[1630年]]に書いたもの)]] |
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*高祖父 :益寧君(익녕군) 李袳(이이) [[太宗]]の庶子 |
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*曾祖父 :秀泉君(수천군) 李貞恩(이정은) |
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*祖父:青杞君(청기군) 李彪(이표) |
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**叔父:端川令(단천령) [[李億舜]](이억순), [[1524年]] - [[1574年]] |
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**叔父:德川都正(덕천도정) [[李億壽]](이억수) |
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*父:咸川君(함천군) 李億載(이억재) [[1503年]] ∼ [[1585年]][[8月13日]] |
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*母(咸川君の正妻):禹氏(우씨) 嫡子なし |
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*母(生母):東莱鄭氏・鄭氏(정씨) 司憲府監察鄭錙の娘 |
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*正妻:鄭氏 鄭樞(정추)の娘 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2013年2月10日 (日) 07:54時点における版
李元翼 | |
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李元翼肖像画(1590年作) | |
各種表記 | |
ハングル: |
호:오리 자:공려 |
漢字: |
号:梧里 字:公励 |
発音: |
ホ:オリ チャ:コンリョ |
日本語読み: |
ごう:ごさと あざな:こうれい |
各種表記(本名) | |
ハングル: | 이원익 |
漢字: | 李元翼 |
発音: | イ・ウォニク(ウォンイク) |
日本語読み: | り・げんよく |
李 元翼(イ・ウォニク(이원익)、1547年(明宗2年) - 1634年(仁祖12年))は、李氏朝鮮の重臣。字は公励、号は梧里、諡号は文忠。本貫は全州で、太宗の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴(咸川君)。姻戚には、尹鑴、許穆、李舜臣などがおり、母方の祖先には、鄭昌孫がいる。また壬辰倭乱の後には、完平府院君の称号と清白吏(청백리)の1人として記録された。
蔭叙によって承議郞となり1569年(宣祖2年)に科挙に及第して大司憲、吏曹判書、左議政を経て領議政となった。党派は東人で、分党すると南人の側につく。また学問の面では、李滉学統を南人に継承させるなどした。
生涯
初期の活動
出生と家系
李元翼は宗親の出自で、咸川都正であった父李億載と司憲府監察鄭錙(東莱鄭氏)の娘鄭氏の次男として出生した。ちなみに王族としての待遇は父代で終わっており、また彼は背が低かった。太宗の庶子益寧君から四世孫にあたる。曾祖父は秀泉君(李貞恩)、祖父は青杞君(李彪)、叔父は李億舜と李億壽である。また母方の祖先は癸酉靖難、世祖反正を助け、領議政であった金礩と鄭昌孫である。
少年期と青年期
1562年(明宗17年)四部学堂の一つ、東学に入学し、1564年(明宗19年)生員試に合格し、蔭補によって承議郞となり、その後、進士試も受け合格した。
官吏生活
1569年(宣祖2年)文科に合格して翌年承文院正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、李珥、柳成龍とは知り合う。
1573年(宣祖6年)成均館典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。翌年、礼曹佐郎に選抜され、黄海道都事、軍器寺判官を歴任した。また黄海道都事の頃、黄海道観察使であった李珥の下で忠実に働いたことで、1576年(宣祖9年)に李珥の推薦で司諫院正言となる。
1578年(宣祖11年)玉堂に入り、弘文館修撰となり、その後も、弘文館校理、司憲府持平、承政院同副承旨1583年(宣祖16年)承政院右副承旨となるが、王子師傅河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)吏曹参判権克礼の推薦で安州牧使となって、民の暮らしの安定のために尽くした。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。
政治活動
壬辰倭乱
1592年(宣祖25年)に文禄・慶長の役が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した祖承訓が小西行長の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。
翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である李如松の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、李恒福の後任として[[右議政となり四道都体察使を兼ね。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した全羅道兵馬節度使の李福男を讒言により革職して笞刑に処し、後任に朴晋を任じた。(その後、李福男は南原の戦いで戦死)
1598年(宣祖31年)、稷山の戦いで日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理楊鎬の功績を本国へ知らせる陳奏辨誣使を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の丁応泰が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の李山海らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。1600年に左議政と都体察使に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。一方門下生である許穆に孫娘を与えた。また壬辰倭乱の頃から、李舜臣を評価し、李舜臣が柳成龍を批判する際にも、唯一支持した。
光海君時代
宣祖が死ぬと柳永慶ら小北派は永昌大君を王位に擁立するが、大北派が光海君を即位させ、光海君によって領議政となって、大同法を拡大施行したり、軍事制度を改革して、悪政を正そうとした。また、みずからも土地1結あたり16斗の米を納税した。だが臨海君、永昌大君の処刑に反対したため、大北派に目をつけられた。1617年李爾瞻が廃母論を主張すると、奇自獻、鄭逑らと共に反対するが、それもむなしく江原道洪川郡に流された。1619年(光海君11年)釈放された。
仁祖時代
1623年(仁祖1年)春仁祖反正により領議政となった。だが西人との連立政権は僅か一年程で崩壊した。1624年(仁祖2年)大北派49人を処刑する事に反対したが、仁祖はそれを無視した。また光海君についても反対し、大北派に憎悪な感情を抱く仁穆王后に懇願し光海君は死刑をまぬがれた。また大同法を全国に施行する事を提案したが、西人派、南人派の激しい反対を受けて実現しなかった。1627年丁卯胡乱には都体察使を引き受け、王世子を護衛した。ついでに訓練都監大将に任命されたが、高齢を理由に辞職した。
老後
その後、致仕し観感堂(관감당)を建て、学問を研究し、門下生の育成に励んだ。とくに、尹鑴、許穆などが輩出された。1632年(仁祖1年)1月10日に仁祖は承旨姜弘重に李元翼が住む家を調べさせ、仁祖が姜弘重に李元翼はどんな家に住んでいたかを尋ねると、草家(초가)に住んでおり、災害には耐えられないということだった。仁祖はこの清貧な暮らしに感動し、5間建ての家を李元翼に下賜した。だが李元翼は民の事を考え受け取らなかった。ちなみに国王が家を建てさせて下賜された例は黄喜と李元翼だけである。1634年(仁祖12)1月29日に死去。仁祖廟庭に祭られて顕彰されている。享年は87歳であった。
死後
李元翼は清白吏に選ばれ、党派を問わずに政治を行っていたため、南人以外の党派からも、評価され、多くの逸話が伝えられている。その後も官吏たちの腐敗と専横が相次ぐが、1658年(孝宗9年)孝宗は臣下に対し李元翼を見習わせて、京畿道始興郡に、三賢祠が建てられその後、忠賢祠に改称され、1676年(粛宗2年)粛宗が直接、忠賢書院に改称し、賜額を下賜した。
1970年代に李元翼の遺影が一時盗難されたが、盗人たちは、祠堂の中に捨てており、それを李元翼の13代目の子孫である李昇珪(이승규)が拾った。13代孫の延世大学校教授の李昇珪は自分の私財を喜捨して李元翼のための博物館である忠賢博物館(충현박물관)を建てた。
血縁関係
- 高祖父 :益寧君(익녕군) 李袳(이이) 太宗の庶子
- 曾祖父 :秀泉君(수천군) 李貞恩(이정은)
- 祖父:青杞君(청기군) 李彪(이표)
- 父:咸川君(함천군) 李億載(이억재) 1503年 ∼ 1585年8月13日
- 母(咸川君の正妻):禹氏(우씨) 嫡子なし
- 母(生母):東莱鄭氏・鄭氏(정씨) 司憲府監察鄭錙の娘
- 正妻:鄭氏 鄭樞(정추)の娘
参考文献
- 李烱錫『壬辰戦乱史(文禄・慶長の役) 上巻』1977年、東洋図書出版
- 「李元翼」項、『縮版東洋歴史大辞典上巻』昭和12年平凡社初版、平成四年臨川書店縮版