「京都市交通局広軌1形電車」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
{{デフォルトソート:}}
Tamanon (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
9行目: 9行目:


新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ[[長崎電気軌道80形電車|80形]]として5両、大連都市交通([[大連市電]])へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。
新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ[[長崎電気軌道80形電車|80形]]として5両、大連都市交通([[大連市電]])へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。

交通局自身は29号を保存車として保管している(以前は旧烏丸車庫に建設された地下鉄北大路工場内の保存館で時折公開していた。その後再開発で移動し、それ以後は公開されていない)。


終戦直後の1947年12月10日から1948年10月20日までの間、電動機の故障した1形22両が、[[京都市交通局600形電車|600形]]のトレーラーとなる「[[親子電車#京都市電|親子電車]]」として運用されている。
終戦直後の1947年12月10日から1948年10月20日までの間、電動機の故障した1形22両が、[[京都市交通局600形電車|600形]]のトレーラーとなる「[[親子電車#京都市電|親子電車]]」として運用されている。

[[File:Kyoto 29.jpg|thumb|旧烏丸車庫で保存時代の29号車(1982年6月1日撮影)]]


{{デフォルトソート:きようとしこうつうきよくこうき1かたてんしや}}
{{デフォルトソート:きようとしこうつうきよくこうき1かたてんしや}}

2013年1月19日 (土) 14:29時点における版

京都市交通局 広軌1形電車(きょうとしこうつうきょく こうき1がたでんしゃ)は、京都市電気軌道事務所路面電車京都市電)を開業させた際、製造投入した車両である。総数169両が製造され、一部車両は大連都市交通(今の中華人民共和国大連)・長崎電気軌道に譲渡された。

車両概要

京都市では市電の開業に先駆け、民営の京都電気鉄道(京電)による路面電車路線が1895年より運転開始されていた。これは狭軌(1067mm軌間)の路線であったが、1912年に開業した京都市電気軌道事務所の方では標準軌(1435mm軌間。当時は1067mm軌間を日本標準軌としており、広軌とも呼んだ)を採用した。そのため、京都電気鉄道が京都市に買収された1918年以降、元京都電気鉄道の車両を狭軌1形、京都市電生え抜きの車両を広軌1形と呼ぶようになったとされている。

スタイルは当時の路面電車では標準であったオープンデッキ型で、中央にダブルポールを設けて折り返し地点で回転させるものとなった。京都電気鉄道のほうでは開業時にシングルポールを採用し、電気は線路を通して変電所に返していたが、水道管の電食が問題になったため、上下電流を架線で送る方式になったとされている。

1912年6月の開業時にまず40両、そして同年中に55両、翌年に72両、1921年に2両を増備した。そのうち2両は貴賓車となっていたが、1923年に普通仕様へ改造した。

新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ80形として5両、大連都市交通(大連市電)へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。

交通局自身は29号を保存車として保管している(以前は旧烏丸車庫に建設された地下鉄北大路工場内の保存館で時折公開していた。その後再開発で移動し、それ以後は公開されていない)。

終戦直後の1947年12月10日から1948年10月20日までの間、電動機の故障した1形22両が、600形のトレーラーとなる「親子電車」として運用されている。

旧烏丸車庫で保存時代の29号車(1982年6月1日撮影)