「筑後十五城」の版間の差分

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2006年2月4日 (土) 07:34時点における版

筑後十五城(ちくごじゅうごじょう)は戦国時代筑後国における大身十五家の総称である。

筑後国には一国を統一する勢力は出現せず、近隣の大大名で筑後守護となっていた大友氏の幕下で各地域の国人領主が共存共栄的に存在していた。それらの国人の中でも特に力を持っていた15の家を「大身十五家」あるいは「筑後十五城」と言う。

その筆頭で筑後を統括していたのが下筑後に1万2千町(後の禄高表記では約12万石)を領し、柳川城を本拠とした蒲池氏だった。『大友幕下筑後領主附』において蒲池氏本家で柳川に拠る下蒲池(1万2千町)と、分家で山下に拠る上蒲池(8千町)に分かれているのは、筑後における蒲池氏の勢力が群を抜いており、さらに強大になり、大友幕下から独立してしまう事を恐れた大友氏が、蒲池鑑久の弟の蒲池親広に別家をたてさせて大名分として取り立て、蒲池氏の勢力を分散したことによる。

蒲池氏を筆頭とする筑後の国人領主は、大友氏の幕下にあって戦の度に動員されはしたものの、軍事以外の領国経営においては独立していた。つまり筑後十五城の大身たちは大友氏の軍事力に従っているにすぎず、常に独立あるいは敵対の可能性を秘めていることになり、そのため大友氏は、筑後国内に「高一揆衆」という大友氏直参の小豪族を配置し、「大名分」としての筑後十五城の国人を監視した。

大友氏が耳川の戦い島津氏に大敗し、十五城筆頭の蒲池鑑盛が討ち死にするや、肥前国龍造寺氏が筑後に侵攻を開始し、山下城に篭城して頑強に抵抗した上蒲池の蒲池鑑広、今山城の三池鎮実、また一貫して大友氏に付いた問註所鑑景など少数の例外を除いて新興の龍造寺側に与することになる。

筑後十五城筆頭の柳川の蒲池鎮漣の妻は龍造寺隆信の娘であり、鎮漣は義父の隆信の与力として龍造寺氏の尖兵となるが、やがて隆信と反目し、隆信は柳川城を包囲するが、九州屈指の堅城である柳川城を攻めきれず、隆信は鎮漣と一旦和睦した後に肥前に招いて謀殺し、下蒲池を滅ぼして柳川を制圧した。

蒲池氏に対する龍造寺隆信の冷酷な行為に反感を抱いた筑後の国人達は次第に龍造寺氏から離れ、下蒲池一族殺害に協力した田尻鑑種をはじめ、黒木家永黒木氏の出で蒲池の名跡を継いだ蒲池益種などが龍造寺氏に対して兵を起こし、龍造寺隆信は筑後経営に手を焼くことになり、龍造寺氏没落の遠因ともなる。

筑後十五城は以下の通り(『大友幕下筑後領主附』他)。

居城 領地 主な人物
蒲池氏(下蒲池) 柳川城540町 山門郡・三潴郡・下妻郡 12000町(12万石) 蒲池鑑盛蒲池鎮漣
蒲池氏(上蒲池) 山下城540町 上妻郡 8600町(8万6千石) 蒲池鑑広蒲池鎮運
問註所氏 長岩城500町 生葉郡 1000町(1万石) 問註所鑑景問註所統景
星野氏 妙見城500町 生葉郡・竹野郡 1000町(1万石) 星野吉実
黒木氏 猫尾城646町 上妻郡 2000町(2万石) 黒木家永
河崎氏 犬尾城250町 上妻郡 1000町(1万石) 河崎鑑実河崎鎮堯
草野氏 発心城677町 山本郡 900町(9千石) 草野鎮永
丹波氏 高良山580町 高良山 2000町(2万石) 丹波良寛
高橋氏 下高橋城280町 御原郡 1000町(1万石) 高橋鑑種
三原氏 本郷城100町 御原郡 700町(7千石) 三原紹心
西牟田氏 城島城250町 三潴郡 1000町(1万石) 西牟田家周
田尻氏 鷹尾城328町 山門郡 1600町(1万6千石) 田尻鑑種
五条氏 高屋城500町 上妻郡 1400町(1万4千石) 五条鑑量五条鎮定
溝口氏 溝口城500町 下妻郡 1000町(1万石) 溝口遠江
三池氏 今山城250町 三池郡 800町(8千石) 三池鎮実