「ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン」の版間の差分

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翌[[1706年]][[4月19日]]、オイゲンが[[ウィーン]]に滞在中の隙を付いて[[カルチナートの戦い]]でも勝利したが、[[ラミイの戦い]]でヴィルロワが[[グレートブリテン王国|イギリス]]軍司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]に大敗、戦線を修復すべく8月にヴィルロワに代わって[[フランドル]]へ送られた。イタリア戦線には後任に[[フェルディナン・ド・マルサン|マルサン]]と[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が派遣されたが、[[9月7日]]の[[トリノの戦い]]でオイゲンに敗北してフランス軍はイタリアから駆逐された。
翌[[1706年]][[4月19日]]、オイゲンが[[ウィーン]]に滞在中の隙を付いて[[カルチナートの戦い]]でも勝利したが、[[ラミイの戦い]]でヴィルロワが[[グレートブリテン王国|イギリス]]軍司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]に大敗、戦線を修復すべく8月にヴィルロワに代わって[[フランドル]]へ送られた。イタリア戦線には後任に[[フェルディナン・ド・マルサン|マルサン]]と[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が派遣されたが、[[9月7日]]の[[トリノの戦い]]でオイゲンに敗北してフランス軍はイタリアから駆逐された。


フランドルへ移動してからは[[南ネーデルラント]]を戦場にして同盟軍と戦ったが、主君のフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が孫の[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]を指揮官としてネーデルラントへ送り出すとブルゴーニュ公と意見が対立、[[アウデナールデの戦い]]ではマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍と交戦、ブルゴーニュ公の援軍が無いことが一因で大敗してしまった。[[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]]ではブルゴーニュ公・[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]と共に包囲軍の補給路を断ったが、ベリックとも仲違いして離脱された上、[[リール (フランス)|リール]]が同盟軍に落とされると[[ヘント]]防衛から引き上げさせられ、帰国後はブルゴーニュ公との対立が尾を引いて指揮権も取り上げられてしまった。
フランドルへ移動してからは[[南ネーデルラント]]を戦場にして同盟軍と戦ったが、主君のフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が孫の[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]を指揮官としてネーデルラントへ送り出すとブルゴーニュ公と意見が対立、[[1708年]]の[[アウデナールデの戦い]]ではマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍と交戦、ブルゴーニュ公の援軍が無いことが一因で大敗してしまった。[[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]]ではブルゴーニュ公・[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]と共に包囲軍の補給路を断ったが、ベリックとも仲違いして離脱された上、[[リール (フランス)|リール]]が同盟軍に落とされると[[ヘント]]防衛から引き上げさせられ、帰国後はブルゴーニュ公との対立が尾を引いて指揮権も取り上げられてしまった。


その後軍務にうんざりして所領へ引退したが、[[1710年]]にスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]](ルイ14世の孫、ブルゴーニュ公の弟)から召喚されてスペイン軍の指揮を執ることとなり、[[ブリウエガの戦い]]、[[ビジャビシオーサの戦い]]で勝利を重ねた。戦争終結前の1712年6月11日に[[ビナロス]]で急死し、[[エル・エスコリアル修道院]]へ埋葬された。妻マリー・アンヌ・ド・ブルボン=コンデ([[コンデ公]][[アンリ3世 (コンデ公)|アンリ3世]]の末娘)との間に子がなかったため、ヴァンドーム公位は弟の[[フィリップ (ヴァンドーム公)|フィリップ]]が継承した。
その後軍務にうんざりして所領へ引退したが、[[1710年]]にスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]](ルイ14世の孫、ブルゴーニュ公の弟)から召喚されてスペイン軍の指揮を執ることとなり、[[ブリウエガの戦い]]、[[ビジャビシオーサの戦い]]で勝利を重ねた。戦争終結前の1712年6月11日に[[ビナロス]]で急死し、[[エル・エスコリアル修道院]]へ埋葬された。妻マリー・アンヌ・ド・ブルボン=コンデ([[コンデ公]][[アンリ3世 (コンデ公)|アンリ3世]]の末娘)との間に子がなかったため、ヴァンドーム公位は弟の[[フィリップ (ヴァンドーム公)|フィリップ]]が継承した。

2012年8月9日 (木) 12:05時点における版

1706年の遠征におけるヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ像

ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン(Louis Joseph de Bourbon, 1654年7月1日 - 1712年6月11日)は、ブルボン朝フランスの貴族・軍人。ボーフォール公、ヴァンドーム公。大同盟戦争スペイン継承戦争において司令官を務めた。ヴァンドーム公ルイ2世アンリ4世ガブリエル・デストレの孫)と、ロール・マンシーニの長男としてパリで生まれた。オーストリアの司令官プリンツ・オイゲンは母方の従弟に当たる。

生涯

1669年に叔父のボーフォール公フランソワオスマン帝国との戦争で戦死、次いで父が亡くなりボーフォール公位とヴァンドーム公位を継承したが、幼少のため母方の叔母のマリア・アンナ・マンチーニに養育された。

18歳で軍へ入り、すぐにオランダ侵略戦争で頭角を現し、1688年には陸軍中将となった。大同盟戦争のステーンケルケの戦いではリュクサンブール公フランソワの元で、マルサリーアの戦いではニコラ・カティナの元で異彩を放った。1695年にはカタルーニャにおける司令官を任ぜられ、1697年バルセロナを攻略、直後にフランス陸軍元帥(fr)となった。

スペイン継承戦争序盤の1702年、フランスはカティナとヴィルロワ公を相次いでイタリアに派遣したが、いずれもプリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍の前に敗れ、ヴァンドームがイタリア戦線の指揮を命じられた。1702年8月15日ルッザーラの戦いでオイゲンに大敗したが、1704年から攻勢に出て巻き返し、1705年8月16日カッサーノの戦いでオイゲンに勝利した。

1706年4月19日、オイゲンがウィーンに滞在中の隙を付いてカルチナートの戦いでも勝利したが、ラミイの戦いでヴィルロワがイギリス軍司令官マールバラ公ジョン・チャーチルに大敗、戦線を修復すべく8月にヴィルロワに代わってフランドルへ送られた。イタリア戦線には後任にマルサンオルレアン公フィリップ2世が派遣されたが、9月7日トリノの戦いでオイゲンに敗北してフランス軍はイタリアから駆逐された。

フランドルへ移動してからは南ネーデルラントを戦場にして同盟軍と戦ったが、主君のフランス王ルイ14世が孫のブルゴーニュ公ルイを指揮官としてネーデルラントへ送り出すとブルゴーニュ公と意見が対立、1708年アウデナールデの戦いではマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍と交戦、ブルゴーニュ公の援軍が無いことが一因で大敗してしまった。リール包囲戦ではブルゴーニュ公・ベリック公と共に包囲軍の補給路を断ったが、ベリックとも仲違いして離脱された上、リールが同盟軍に落とされるとヘント防衛から引き上げさせられ、帰国後はブルゴーニュ公との対立が尾を引いて指揮権も取り上げられてしまった。

その後軍務にうんざりして所領へ引退したが、1710年にスペイン王フェリペ5世(ルイ14世の孫、ブルゴーニュ公の弟)から召喚されてスペイン軍の指揮を執ることとなり、ブリウエガの戦いビジャビシオーサの戦いで勝利を重ねた。戦争終結前の1712年6月11日にビナロスで急死し、エル・エスコリアル修道院へ埋葬された。妻マリー・アンヌ・ド・ブルボン=コンデ(コンデ公アンリ3世の末娘)との間に子がなかったため、ヴァンドーム公位は弟のフィリップが継承した。

参照

  • パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)
  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。