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妹の[[コーネリア・プレル]]も[[アルペンスキー]]のオーストリア代表として[[レークプラシッドオリンピック (1980年)]]の滑降に出場した。
妹の[[コーネリア・プレル]]も[[アルペンスキー]]のオーストリア代表として[[レークプラシッドオリンピック (1980年)]]の滑降に出場した。
== プロフィール ==
== プロフィール ==
アンネマリーは8人きょうだいの6番目として生まれ、幼いころからスキーに親しんだ。
アンネマリーは8人兄弟の6番目として生まれ、幼いころからスキーに親しんだ。
12歳のとき地区大会で優勝して才能を見出され、1968年1月17日に14歳で[[アルペンスキー・ワールドカップ]]の滑降レースにデビュー、79位となった。
12歳のとき地区大会で優勝して才能を見出され、1968年1月17日に14歳で[[アルペンスキー・ワールドカップ]]の滑降レースにデビュー、79位となった。
1970年1月17日に大回転でワールドカップ初勝利を挙げると、[[1970年アルペンスキー世界選手権]]では滑降で銅メダルを獲得した。
1970年1月17日に大回転でワールドカップ初勝利を挙げると、[[1970年アルペンスキー世界選手権]]では滑降で銅メダルを獲得した。
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1976年12月、アンネマリーは現役に復帰、再びトップスキーヤーとなった。
1976年12月、アンネマリーは現役に復帰、再びトップスキーヤーとなった。
[[1978年アルペンスキー世界選手権]]の滑降とアルペン複合で金メダル、大回転で銅メダルを獲得、
[[1978年アルペンスキー世界選手権]]の滑降とアルペン複合で金メダル、大回転で銅メダルを獲得、
1980年の[[レークプラシッドオリンピック (1980年) におけるアルペンスキー競技|レークプラシッドオリンピック]]の滑降では金メダルを獲得した。このシーズン、ワールドカップでも5勝を挙げた。しかしこのシーズンを最後に現役を引退し、地元クラインアルルで "Weltcup-Cafe Annemarie"を開業。このカフェには彼女自身が獲ったカップやトロフィーが飾られた。1974年に[[アトミック]]社の社員であったヘルベルト・モザーと結婚し、1982年に娘を出産、2003年には孫が生まれている。
1980年の[[レークプラシッドオリンピック (1980年)|レークプラシッドオリンピック]]では、オーストリア選手団旗手を務めた。この大会では、滑降に出場し金メダルを獲得。このシーズン、ワールドカップでも5勝を挙げた。しかしこのシーズンを最後に現役を引退し、地元クラインアルルで "Weltcup-Cafe Annemarie"を開業。このカフェには彼女自身が獲ったカップやトロフィーが飾られた。1974年に[[アトミック]]社の社員であったヘルベルト・モザーと結婚し、1982年に娘を出産、2003年には孫が生まれている。


[[アルペンスキー・ワールドカップ|ワールドカップ]]で総合優勝を6回果たしており1971年から1975年まで5年連続優勝、1979年にも優勝したほか、種目別の滑降で7回(1971年から1975年、1978年、1979年)、大回転で3回(1971年、1972年、1975年)、アルペン複合で2回(1975年、1979年)タイトルを獲得している。
[[アルペンスキー・ワールドカップ|ワールドカップ]]で総合優勝を6回果たしており1971年から1975年まで5年連続優勝、1979年にも優勝したほか、種目別の滑降で7回(1971年から1975年、1978年、1979年)、大回転で3回(1971年、1972年、1975年)、アルペン複合で2回(1975年、1979年)タイトルを獲得している。
ワールドカップで挙げた62勝(滑降36勝、大回転16勝、回転3勝、複合7勝)は女子選手としてトップであり、男子選手を含めてもウィンタースポーツでは[[バイアスロン]]、[[クロスカントリースキー]]の[[オーレ・アイナル・ビョルンダーレン]](93勝)、[[アルペンスキー]]の[[インゲマル・ステンマルク]](86勝)に次ぐ。
ワールドカップで挙げた62勝(滑降36勝、大回転16勝、回転3勝、複合7勝)は女子選手としてトップであり、男子選手を含めてもウィンタースポーツでは[[バイアスロン]]、[[クロスカントリースキー]]の[[オーレ・アイナル・ビョルンダーレン]](93勝)、[[アルペンスキー]]の[[インゲマル・ステンマルク]](86勝)に次ぐ。

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.annemarie-moser-proell.at Official website] {{de icon}}
*[http://www.annemarie-moser-proell.at Official website] {{de icon}}

2012年7月31日 (火) 20:57時点における版

アンネマリー・モザー=プレル
名前
本名 Annemarie Moser-Pröll
基本情報
国籍 オーストリア
生年月日 (1953-03-27) 1953年3月27日(71歳)
生誕地  オーストリアザルツブルク州ザンクト・ヨーハン・イム・ポンガウ郡クラインアルル
ワールドカップ戦歴
デビュー年 1968年
引退年 1980年
総合優勝 1971-1975年、1979年
通算成績 62勝、表彰台回数114回
獲得メダル
オリンピック
1980 滑降
1972 滑降
1972 大回転
アルペンスキー世界選手権
1972 アルペン複合
1974 滑降
1978 滑降
1978 アルペン複合
1970 滑降
1978 大回転

アンネマリー・モザー=プレル(Annemarie Moser-Pröll, 1953年3月27日 - )はオーストリアザルツブルク州ザンクト・ヨーハン・イム・ポンガウ郡クラインアルル出身の女子アルペンスキー選手である。1970年代に活躍した。 妹のコーネリア・プレルアルペンスキーのオーストリア代表としてレークプラシッドオリンピック (1980年)の滑降に出場した。

プロフィール

アンネマリーは8人兄弟の6番目として生まれ、幼いころからスキーに親しんだ。 12歳のとき地区大会で優勝して才能を見出され、1968年1月17日に14歳でアルペンスキー・ワールドカップの滑降レースにデビュー、79位となった。 1970年1月17日に大回転でワールドカップ初勝利を挙げると、1970年アルペンスキー世界選手権では滑降で銅メダルを獲得した。 以降全盛期を迎え、ワールドカップで通算6回の総合優勝を達成するなど1970年代を代表する女子アルペンスキー選手であり、特に滑降大回転複合の種目で活躍した。 1972年札幌オリンピックでは滑降、大回転でいずれもスイスマリー=テレース・ナディヒについで銀メダルを獲得した。

1975-1976シーズンの直前、彼女は父親の看病を理由に引退を発表し周囲を驚かせた。よって自国開催のインスブルックオリンピックには出場できなかった。

1976年12月、アンネマリーは現役に復帰、再びトップスキーヤーとなった。 1978年アルペンスキー世界選手権の滑降とアルペン複合で金メダル、大回転で銅メダルを獲得、 1980年のレークプラシッドオリンピックでは、オーストリア選手団の旗手を務めた。この大会では、滑降に出場し金メダルを獲得。このシーズン、ワールドカップでも5勝を挙げた。しかしこのシーズンを最後に現役を引退し、地元クラインアルルで "Weltcup-Cafe Annemarie"を開業。このカフェには彼女自身が獲ったカップやトロフィーが飾られた。1974年にアトミック社の社員であったヘルベルト・モザーと結婚し、1982年に娘を出産、2003年には孫が生まれている。

ワールドカップで総合優勝を6回果たしており1971年から1975年まで5年連続優勝、1979年にも優勝したほか、種目別の滑降で7回(1971年から1975年、1978年、1979年)、大回転で3回(1971年、1972年、1975年)、アルペン複合で2回(1975年、1979年)タイトルを獲得している。 ワールドカップで挙げた62勝(滑降36勝、大回転16勝、回転3勝、複合7勝)は女子選手としてトップであり、男子選手を含めてもウィンタースポーツではバイアスロンクロスカントリースキーオーレ・アイナル・ビョルンダーレン(93勝)、アルペンスキーインゲマル・ステンマルク(86勝)に次ぐ。

外部リンク