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1980年レークプラシッドオリンピック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1980年レークプラシッドオリンピック
第13回オリンピック冬季競技大会
XIII Olympic Winter Games
開催国・都市 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 レークプラシッド
参加国・地域数 37
参加人数 1,072人(男子839人、女子233人)
競技種目数 6競技38種目
開会式 1980年2月13日
閉会式 1980年2月24日
開会宣言 ウォルター・モンデール副大統領
選手宣誓 エリック・ハイデン
審判宣誓 テリー・マクダーモット
最終聖火ランナー チャールズ・カー
主競技場 レークプラシッド・エクウェストリアン・スタジアム(開会式)
オリンピック・センター・アリーナ(閉会式)
冬季
夏季
オリンピックの旗 Portal:オリンピック
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1980年レークプラシッドオリンピック(1980ねんレークプラシッドオリンピック)は、1980年2月13日から2月24日までアメリカ合衆国ニューヨーク州レークプラシッドで行われた冬季オリンピックレークプラシッド1980(Lake Placid 1980)と呼称される。

大会開催までの経緯

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レークプラシッドでは1932年にオリンピックが開かれた後、1963年7月8日にアメリカ下院1968年冬季オリンピックの招致が可決[1]、上院の議決を経て立候補がされたが、フランスのグルノーブルに敗れた。

1972年11月11日には、1976年のオリンピック開催をデンバーが返上したため立候補を表明した[2]。代替地候補であったソルトレイクシティが立候補を取り下げたため、アメリカオリンピック委員会が立候補させてよい意向を示し翌31日にIOCに対してアメリカオリンピック委員会より立候補の申請がなされたが、2月1日にIOCのスポークスマンは1月15日が開催希望地の締め切り日であり、レークプラシッドからの公式の通達が来ていないと否定的なコメントが出された[3]。2月4日のIOC理事会でインスブルックに敗れ、1980年の冬季オリンピック誘致を目指した[4]。1974年3月31日に締め切られた立候補は、レークプラシッド以外にフランスのシャモニー、カナダのバンクーバー=ガリバルディであった[5]。その後他の地域は立候補を取り下げ、同年10月23日にオーストリアウィーンで行われたIOC総会で1980年モスクワオリンピックと同時に開催が決定した。この時、対立候補地はなく無競争で承認がされた[6]

7億5000万ドルかかった1972年札幌オリンピックに対して1932年レークプラシッドオリンピックでも使用した世界初の室内スケート場と言われたオリンピックアリーナ(アイスホッケー用)やスピードスケートの施設を有効利用した。ジャンプ台は90メートル級を新設、当初既存の施設を補修する予定だった70メートル級ジャンプ台も新設された。この際、建設費削減の為70メートル級と90メートル級のジャンプ台が初めて併設の形になった。オリンピックアリーナに併設されて人口2700人の町にはふさわしくない8000人収容のオリンピック・センターも新設された。アルペンスキーは、町の中心地から北東に13km離れた標高1460メートルのホワイトフェース山で行われ、ボブスレーリュージュの施設も新設された。ただし周囲の町も含めても宿泊施設が不足し、観客は60kmから100kmほど離れたモントリオールバーモント州に宿泊しなければならないことが予期された[7]。ノルディックスキーは、南へ7kmのバン・ホーベンベルク山で開催された[8]

前年の1979年に行われたプレ五輪では、2月11日に氷点下25度であったため国際スキー連盟の規則である氷点下20度以下であった場合、競技を開始しない規定に基づきスキーのリレー競技が中止となった[9]

選手村は、新設刑務所建設の予算で建てられた[10]。5つの刑務所の建物だけでは、選手は入りきれずトレーラーハウスも用意され1932年ロサンゼルスオリンピックで選手村制度ができて以来、金網で隔てられるなど男女に分かれていた選手村が一緒になった[11]

冬季オリンピック史上初めて中国が出場し[12]人工降雪機が採用されたのも初であった[13]。なお、デンマークだけは選手の水準不足でメダルを獲得する可能性がないという理由で不参加であった[14]

ハイライト

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レークプラシッドでは上記の通り1932年以来、2回目のオリンピック開催となった。アメリカ国内での開催も1960年1960年スコーバレーオリンピック以来、20年ぶり3回目の冬季オリンピックだった。

聖火リレーは1月30日にギリシャオリンピアで採火式が行われた後、アメリカ大統領専用機バージニア州ラングレー空軍基地に到着[15]、延べ1600kmを二手に分かれて、9日間52人のランナーでリレーされ、2月8日午後8時11分にオリンピック・スケート会場に到着した[16]

サイラス・ヴァンス国務長官のスピーチがモスクワ大会を非難する内容であったため、開会式をモスクワオリンピック組織委員会委員長のソ連のノビコフ副首相らがこれをボイコットした[17]

スピードスケートでアメリカのエリック・ハイデンが5種目完全制覇の偉業を成し遂げた[18]。距離別のスペシャリスト化が始まっていた中、空前絶後の記録である。タイム差もかなりあり、危なげない5冠達成であった。銀メダルは1500mと5000mが同じ選手だったため4人。そのうち2人は1976年インスブルックオリンピックの金メダリストで、1人は1984年サラエボオリンピックで二冠を達成している。この大会でのアメリカの金メダルはハイデンの5個と最終日のアイスホッケーで計6個であった。

最終日に行われたアイスホッケー競技の決勝リーグ戦では、2月22日の試合でソ連を4-3で破った大学生で構成されたアメリカチームが(カーター大統領は、ソ連を破った2月22日にチームを2月25日にホワイトハウスへ招待すると祝電を打った。)[19]フィンランドを破り、20年ぶりの金メダルを手にした。それまで、同種目を4連覇し無敵と称されたソ連チームを準決勝で破った上での栄冠であり、後に氷上の奇跡と称される歓喜のフィナーレとなった。

前年の1979年に起きたソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対して、当時アメリカのジミー・カーター大統領が同年夏の1980年モスクワオリンピックにボイコットの方針を表明して[20]賛否両論の議論を巻き起こしていた。レークプラシッド大会終了後、カーター大統領は五冠のハイデンやホッケー選手ら今大会の英雄を昼食会に招いたが、その場で彼らにボイコット反対を表明されるしっぺ返しを受けてしまった。

なお、不参加の噂もあったソ連選手団は2月4日に第一陣が入村するなど参加している[21]

一方、イラン革命によりパフラヴィー朝のイラン王国が崩壊し、1979年2月にイラン・イスラム共和国が成立していたイランでは同年11月に起きたイランアメリカ大使館人質事件が継続中で、対米関係は極度に悪化していた。その外交的背景もあり、王国時代の1964年インスブルックオリンピックから4大会連続で冬季オリンピック大会に参加していたイラン選手団は本大会に参加しなかった。

マスコット

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ロニ(アライグマがモチーフとなっている。)

実施競技

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主な競技会場

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各国の獲得メダル

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国・地域
1 ソビエト連邦 ソビエト連邦 10 6 6 22
2 東ドイツ 東ドイツ 9 7 7 23
3 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国(開催国) 6 4 2 12
4 オーストリア オーストリア 3 2 2 7
5 スウェーデン スウェーデン 3 0 1 4
6 リヒテンシュタイン リヒテンシュタイン 2 2 0 4
7 フィンランド フィンランド 1 5 3 9
8 ノルウェー ノルウェー 1 3 6 10
9 オランダ オランダ 1 2 1 4
10 スイス スイス 1 1 3 5

主なメダリスト

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脚注

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  1. ^ レークプラシッド招致可決 冬季五輪で米下院 読売新聞 1963年7月10日朝刊6ページ
  2. ^ レークプラシッド 正式に立候補 冬季五輪の代替地に 読売新聞 1972年11月13日朝刊 18ページ
  3. ^ レークプラシッド指名 1976年冬季五輪で米委員会 1973年2月2日 読売新聞 朝刊19ページ
  4. ^ 80年大会誘致めざす レークプラシッド 読売新聞 1973年2月17日 朝刊19ページ
  5. ^ 開催地候補締め切る 1980年オリンピック 読売新聞 1974年4月2日 朝刊15ページ
  6. ^ 80年五輪モスクワで IOC決定 冬季はレークプラシッド=米 読売新聞 1974年10月24日 朝刊1ページ
  7. ^ 1980年冬季五輪あと100日 レークプラシッド 早くも開会式リハーサル 読売新聞 1979年11月6日 読売新聞 17ページ
  8. ^ 2度目の冬季五輪開催 レークプラシッド 読売新聞 1974年10月24日 朝刊18ページ
  9. ^ プレ五輪 極寒で中止 読売新聞 1979年2月13日朝刊16ページ
  10. ^ レークプラシッド 日本など1陣"入村" 読売新聞 1980年1月30日 朝刊17ページ
  11. ^ ナヌ、選手村は"男女一緒"!? 読売新聞 1980年2月13日 朝刊17ページ
  12. ^ 一斉に36か国の旗 選手村/レークプラシッド五輪 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ
  13. ^ 人工降雪機の技術と動向」『ターボ機械』第22巻第9号、1994年、554-559頁、doi:10.11458/tsj1973.22.5542018年2月12日閲覧 
  14. ^ メダル取れぬから デンマーク不参加 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ
  15. ^ オリンピアで聖火の採火式 読売新聞 1980年1月31日 朝刊17ページ
  16. ^ 聖火到着 理事会揺れる レークプラシッド 5000人が待つリンクへ 読売新聞 1980年2月9日 夕刊 10ページ
  17. ^ レークプラシッド "政治の火花" 開会式ボイコット IOC総会 読売新聞 1980年2月11日 朝刊18ページ
  18. ^ ハイデン世界新で「5冠」スピード レークプラシッド冬季オリンピック 1980年2月24日 朝刊17ページ
  19. ^ アメリカ"肉弾戦" ソ連を撃破 反則なんの、猛攻で大逆転 読売新聞 1980年2月23日 夕刊9ページ
  20. ^ インサイド・レポート 五輪ボイコット第2ハードル 米ソ譲らず 1980年2月21日 読売新聞 朝刊3ページ
  21. ^ 注目のソ連勢入村 レークプラシッド まず役員5人 読売新聞 1980年2月5日 夕刊8ページ

関連項目

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外部リンク

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