「呉権」の版間の差分
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2012年4月10日 (火) 11:21時点における版
呉権 | |
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生誕 |
897年3月12日 唐林(ハタイ省) |
死没 |
944年1月18日 古螺(ハノイ市ドンアイン県) |
職業 | 政治家、軍人 |
配偶者 | 不明(楊廷芸の娘) |
呉権(ごけん、ベトナム語: Ngô Quyền、ゴ・クエン、897年3月12日 - 944年1月18日)は、ベトナム呉朝の建国者で、前呉王と称された。父親は唐林の州牧だった呉旻。楊廷芸の南漢に抗する戦争で勇敢に戦い、信頼を得て娘を娶る。南漢軍を撃退した後に楊廷芸より刺史の位を授かり、愛州(タインホア省)を治めた。楊廷芸が矯公羨のために殺されると、呉権は937年12月に愛州で挙兵して、矯公羨を討った。矯公羨は南漢に救援を求めた。南漢は万王劉洪操を静海節度使に任じて、兵を発し、矯公羨を救援させた。劉洪操は水軍を率いてベトナムに侵攻したが、このときすでに矯公羨は呉権に殺されていた。呉権は劉洪操の侵攻を聞いて白藤江で迎撃し、これを大いに破った。その後、呉権は王を称した。944年、世を去った。
人物
呉権は長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩くさまはまるで虎のようであったと言われている。ベトナムの伝説によると、生まれたときに異様な光に包まれていて、背中には大きなあざが三つあったとされる。将来大物になるということで、名を「権」と付けられた。力は一人で鼎を持ち上げることができるほどだったといわれている。
治績
939年、呉権は王位に上がり、古螺(コーロア)の地を選んで都とした。北方の封建朝廷の千年にも及ぶ統治に終止符を打ったのである。
呉権は北方封建主義の節度使の廃止を決定し、中央に新しい朝廷を樹立した。王が朝廷の先頭に立ち、政治・外交・軍事の全てを決定することにしたのである。文武の官僚を置き、朝廷内の儀礼と官吏の服装の色を階級に応じて規定した。
また地方には功績のある将軍を選んで、重要な各州を治めさせた。丁公著は驩州(ゲアン省・ハティン省)、矯公罕は峯州(フート省)の刺史となった。
死後の状況
944年、呉権が死亡する。2人の子供、呉昌岌と呉昌文はまだ若く、中央の政権を堅持するための威信と力を持っていなかった。そこで官僚の楊三哥が王位を簒奪し、平王を名乗った。そのため、呉昌岌は逃亡することになる。各党派がいたるところで起ち上がり、国は不安定な状態になった。
950年、呉昌文は将兵の支持を得て楊三哥を打倒し、王位を獲得した。その際に兄を招いて共に統治することしたのである。
965年、呉昌文が死去すると、割拠勢力である地方の土豪の間での争いが引き続いた。そのとき、国は12の領袖が各地方を占拠し戦いあう「十二使君の乱」(~967年)と呼ばれた分裂状態に陥ることになる。
参考文献
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年。
- ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。
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