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2012年2月29日 (水) 08:39時点における版

雲林院(うんりんいん)
  1. 京都大徳寺の南にあった天台宗の大寺院。本項目で解説。
  2. の演目。伊勢物語を愛読する芦屋公光(きんみつ)が霊夢によって雲林院に行くと、在原業平の霊に会う、という内容の三番目物の謡曲
雲林院(うじい)
  1. 北伊勢の地名。現在の三重県津市芸濃町地内。中世には雲林院城があり、源頼朝の御家人工藤祐長が北伊勢一帯を地頭職として納めて以来、工藤氏の分家雲林院氏が居城としていた。

雲林院門前 紫野雲林院町から撮影
雲林院境内に残る観音堂

雲林院(うんりんいん[1]、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある。なまって「うじい」とも呼ばれた。

概要

もとは、淳和天皇離宮紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、桜の名所でもあった。文人を交えてたびたび行幸したという。

その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲った。

869年貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。884年元慶8年)、遍昭はこれを花山元慶寺の別院とし、年分度者3人を与えられて天台教学を専攻。その後、鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・紅葉で有名であった。

雲林院は、『今昔物語集』、『大鏡』の舞台となり、また『古今和歌集』以下の歌集で歌の名所であった。在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』にもなった。

鎌倉時代に入って衰退したものの、1324年正中元年)に復興され、大徳寺付属の子院となった。以後は禅寺となったが、応仁の乱(1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。

現在の雲林院は、1707年宝永4年)にかつての寺名を踏襲し、大徳寺の塔頭(たっちゅう)として建てられたものである。境内に本堂はなく、堂宇(どうう)として同年に再建された観音堂が残る。ここには、十一面千手観音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像が安置されている。

門前の駒札には、僧侶であり、歌人として知られた西行の詠んだ歌が記されている。

これやきく 雲の林の 寺ならん 花を尋ねる こころやすめん

紫式部と雲林院

かつて雲林院境内にあった大徳寺塔頭の真珠庵に「紫式部産湯の井戸」がある。紫式部はこの周辺で生まれ育ったとされ、その名も、雲林院の建つ紫野に由来するといわれている[2]

源氏物語』五十四帖の巻の一「賢木(さかき)」に、雲林院が登場する。光源氏が籠もり、天台宗六十巻を読みすすめる。亡き母・桐壺の更衣の兄も籠って修行する。源氏が朧月夜との禁断の恋に落ちたのも雲林院であった。

紫式部自身の墓所も雲林院近くに置かれ、彼女が生涯を通じてこの雲林院に親しんでいた様子が伺える。

発掘調査

2000年平成12年)に、周辺区域のマンション建設に伴い、かつての雲林院跡の発掘調査が行われた。離宮跡であったことを裏付ける、平安時代の建物跡や井戸跡などが発見されている。

脚注

  1. ^ 周辺の地名紫野雲林院町は、「むらさきのうんりんいんちょう」と呼ばれる。
  2. ^ 京都の史跡Q&A 雲林院(うんりんいん)について教えてください。