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松江藩主の[[松平定安]]に命ぜられ、[[文久]]3年([[1863年]])の冬に江戸に出て、鉄砲[[慶應義塾]]に入塾し[[福澤諭吉]]から直接に学ぶ。慶應義塾就学時代の聡明さが[[勝海舟]]の目に止まり、海舟の推挙で維新政府の[[徴士]]となり、明治3年(1870年)に[[フランス]]留学を命ぜられ、明治13年(1880年)に帰朝している。
松江藩主の[[松平定安]]に命ぜられ、[[文久]]3年([[1863年]])の冬に江戸に出て、鉄砲[[慶應義塾]]に入塾し[[福澤諭吉]]から直接に学ぶ。慶應義塾就学時代の聡明さが[[勝海舟]]の目に止まり、海舟の推挙で維新政府の[[徴士]]となり、明治3年(1870年)に[[フランス]]留学を命ぜられ、明治13年(1880年)に帰朝している。


欧州留学中に、フランスで[[エミール・アコラス]]博士に師事して[[法制学]]を学ぶ。特に[[西園寺公望]]と深い親交があり、西園寺の後ろ盾を得てカール・マルクスに学ぶ機会を日本人として初めて与えられ、西園寺にマルクスを紹介した。明治6年(1873年)、留学中の[[スイス]]で尊敬する[[西郷隆盛]]の辞職を聞いて故国に望みを経ち、スイス他欧州各国歴遊の旅に上り、[[ジュネーヴ湖]]畔の景観が郷里・松江を思わせるところからついに'''西湖'''(せいこ)と号を改めた。
欧州留学中に、フランスで[[エミール・アコラス]]博士に師事して[[法制学]]を学ぶ。特に[[西園寺公望]]と深い親交があり、西園寺の後ろ盾を得てカール・マルクスに学ぶ機会を日本人として初めて与えられ、西園寺にマルクスを紹介した。明治6年(1873年)、留学中の[[スイス]]で尊敬する[[西郷隆盛]]の辞職を聞いて故国に望みを経ち、スイス他欧州各国歴遊の旅に上り、[[ジュネーヴ湖]]畔の景観が郷里・松江を思わせるところからついに'''西湖'''(せいこ)と号を改めた。

2011年9月27日 (火) 05:24時点における版

飯塚 西湖(いいづか せいこ、弘化2年(1845年) - 昭和4年(1929年12月6日)は、松江藩出身の明治期の漢詩人法律学士。元の名は、飯塚静庵(せいあん)でのちに飯塚(おさむ)と名を改める。西湖はで、は脩平。

カール・マルクスに唯一、直接会ったことがある日本人とされている。

経歴

出雲国松江生まれ。

松江藩主の松平定安に命ぜられ、文久3年(1863年)の冬に江戸に出て、鉄砲洲慶應義塾に入塾し福澤諭吉から直接に学ぶ。慶應義塾就学時代の聡明さが勝海舟の目に止まり、海舟の推挙で維新政府の徴士となり、明治3年(1870年)にフランス留学を命ぜられ、明治13年(1880年)に帰朝している。

欧州留学中に、フランスでエミール・アコラス博士に師事して法制学を学ぶ。特に西園寺公望と深い親交があり、西園寺の後ろ盾を得てカール・マルクスに学ぶ機会を日本人として初めて与えられ、西園寺にマルクスを紹介した。明治6年(1873年)、留学中のスイスで尊敬する西郷隆盛の辞職を聞いて故国に望みを経ち、スイス他欧州各国歴遊の旅に上り、ジュネーヴ湖畔の景観が郷里・松江を思わせるところからついに西湖(せいこ)と号を改めた。

帰国後に漢詩漢文の腕を研き、明治14年(1881年)『東洋自由新聞』の発刊に参加して一時期民権運動に関係したが、次第に国家主義運動に傾倒するようになり、本田種竹釈情潭らと関係を持つ。

麻布飯倉片町に紀州徳川家の文庫「南葵文庫の会」が発足すると、権藤成卿小沢打魚川崎紫山内田良平黒龍会主宰)、大江卓樽井藤吉山口弾正大井憲太郎小島文六三浦伴八兼松義整綱島正興等と共に会員として発起人となり、毎月1回「南葵文庫」を主催し、及び会員の自宅で講演を行った。この南葵文庫を中心としたサークルは次第に右翼的な性格を持つ『老荘会』に関わるようになり、『老荘会』は更に発展して、大川周明北一輝らの『猶存会』となった。

著書

  • 飯塚納著、権藤成卿編『西湖四十字詩』松木多賀司、1930年

参考文献

  • 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843

外部リンク