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'''メフディー・ベン・バルカ'''(Mehdi Ben Barka、[[1920年]] - [[1965年]][[10月29日]]失踪)は、[[モロッコ]]の政治家。[[左翼]][[政党]]の[[人民諸勢力全国同盟]](UNFP)の党首、[[キューバ]]の国際的政治団体[[アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構]](OSPAAAL)の書記を務め、モロッコ国王[[ハッサン2世]]への反対運動を展開し、[[パリ]]で失踪を遂げた。[[2011年]]現在、彼の失踪事件は解決されていない。 |
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[[1975年]][[12月29日]]、[[アメリカ合衆国]]の週刊誌[[タイム]]は「メフディー・ベン・バルカの殺害」と題した記事を発表した。同記事によるとバルカはモロッコの諜報員3名に殺害され、またそのうち1人はその後内務大臣になったという。また、[[アメリカ中央情報局]](CIA)やフランスの情報機関、[[イスラエル諜報特務局]]も関与したとされている。 |
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2011年3月6日 (日) 12:28時点における版
メフディー・ベン・バルカ(Mehdi Ben Barka、1920年 - 1965年10月29日失踪)は、モロッコの政治家。左翼政党の人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首、キューバの国際的政治団体アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構(OSPAAAL)の書記を務め、モロッコ国王ハッサン2世への反対運動を展開し、パリで失踪を遂げた。2011年現在、彼の失踪事件は解決されていない。
生涯
1920年ラバトで公務員の家に生まれる。1950年にフランスの学校で、モロッコ人としては初の数学の学位を得た。
帰国後、保守的なイスティクラル党に入党するも、1959年に保守思想を放棄し、左派の人民諸勢力全国同盟を結成した。1962年バルカはハッサン2世に対する陰謀の罪で逮捕され、亡命した。1963年にはアルジェリアとの国境紛争(砂戦争)に際してアルジェリア側を支持し、欠席裁判で死刑を宣告された。
1965年10月29日、バルカはパリで警官によって連れ去られて失踪し、以来二度と目撃されていない。
1975年12月29日、アメリカ合衆国の週刊誌タイムは「メフディー・ベン・バルカの殺害」と題した記事を発表した。同記事によるとバルカはモロッコの諜報員3名に殺害され、またそのうち1人はその後内務大臣になったという。また、アメリカ中央情報局(CIA)やフランスの情報機関、イスラエル諜報特務局も関与したとされている。