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'''雲林院'''(うじい)は北伊勢の地名。中世には雲林院城があり、源頼朝の御家人工藤祐長が北伊勢一帯を地頭職として納めて以来、工藤氏の分家雲林院氏が居城としていた。
'''雲林院'''(うじい)は北伊勢の地名。中世には雲林院城があり、源頼朝の御家人工藤祐長が北伊勢一帯を地頭職として納めて以来、工藤氏の分家雲林院氏が居城としていた。
'''雲林院'''(うりんいん)
'''雲林院'''(うりんいん)
#[[京都]][[大徳寺]]の南にあった[[天台宗]]の大寺。本項目で解説。
#[[京都]][[大徳寺]]の南にあった[[天台宗]]の大寺。本項目で解説。
#[[能]]の演目。三番目物の美男物。[[雲林院 (能)]]を参照
#[[能]]の演目。三番目物の美男物。[[伊勢物語]]を愛読する芦屋公光(きんみつ)が霊夢によって雲林院に行くと、在原業平の霊に会う、という謡曲
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[[画像:Unrin'in01.JPG|thumb|280px|雲林院門前 紫野雲林院町から撮影]]
[[画像:Unrin'in02.JPG|thumb|200px|雲林院境内に残る観音堂]]
'''雲林院'''(うんりんいん、うりんいん)は、[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野にある[[臨済宗]]の寺院である。かつて[[天台宗]]の大寺院として知られた平安時代の史跡でもある。なまって「'''うじい'''」とも呼ばれた


== 概要 ==
'''雲林院'''(うりんいん)は、かつて[[京都]][[大徳寺]]の南(現在の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野にあった[[天台宗]]の大寺。のちに、なまって「'''うじい'''」とも。
もとは、[[淳和天皇]]の[[離宮]]'''紫野院'''として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、たびたび行幸し、桜の名所として知られ、文人を交えて宴も行われていたという。


その後[[仁明天皇]]の離宮となり、やがて皇子[[常康親王]]に譲った。
もとは、[[淳和天皇]]の[[離宮]]'''紫野院'''であったが、その後[[仁明天皇]]の離宮となり、やがて皇子[[常康親王]]に賜った。[[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]11年)親王が亡くなった後、僧正[[遍昭]]に譲られ、[[884年]]([[元慶]]8年)、遍昭はこれを花山[[元慶寺]]の別院とし、[[年分度者]]3人を与えられて天台教学を専攻させた。その後、[[鎌倉時代]]までは天台宗の[[官寺]]として栄え、菩提講・桜花・[[紅葉]]で有名であった。雲林院は、『[[今昔物語集]]』、『[[大鏡]]』の舞台となり、また『[[古今和歌集]]』以下の歌集で歌の名所であった。[[在原業平]]が『[[伊勢物語]]』の筋を夢で語る[[謡曲]]『雲林院』にもなったが、時とともに寺運が衰えた。


[[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]11年)親王が亡くなった後、僧正[[遍昭]]に託しここを[[官寺]]「雲林院」とした。[[884年]]([[元慶]]8年)、遍昭はこれを花山[[元慶寺]]の別院とし、[[年分度者]]3人を与えられて天台教学を専攻させた。その後、[[鎌倉時代]]までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・[[紅葉]]で有名であった。
[[1324年]]([[正中 (日本)|正中]]元年)復興され大徳寺付属のとなり、以後[[宗]]の寺となったが、[[応仁の乱]](1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。


雲林院は、『[[今昔物語集]]』、『[[大鏡]]』の舞台となり、また『[[古今和歌集]]』以下の歌集で歌の名所であった。[[在原業平]]が『[[伊勢物語]]』の筋を夢で語る[[謡曲]]『雲林院』にもなった。[[紫式部]]の名も「紫野雲林院」に由来するともいわれている<ref>[http://www.hal-kyoto.com/ki/kyosikai/q_and_a/unrinin/index.html 京都の史跡Q&A 雲林院(うんりんいん)について教えてください。]</ref>。
現在は、地名として'''雲林院'''の名が残り、また堂宇としてわずかに観音堂が残るのみである。


鎌倉時代に入って衰退したものの、[[1324年]]([[正中 (日本)|正中]]元年)復興され大徳寺付属の子院となった。以後禅寺となったが、[[応仁の乱]](1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。
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現在の雲林院は、[[1707年]](宝永4年)にかつての寺名を踏襲し、大徳寺の[[塔頭]](たっちゅう)として建てられたものである。境内に本堂はなく、堂宇(どうう)として同年に再建された観音堂が残る。ここには、十一面千手観音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像が安置されている。

== 発掘調査 ==
[[2000年]]に、周辺区域のマンション建設に伴い、かつての雲林院跡の発掘調査が行われた。離宮跡であったことを裏付ける、平安時代の建物跡や井戸跡などが発見されている。

== 脚注 ==
<references />

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2010年12月19日 (日) 04:40時点における版

雲林院(うじい)は北伊勢の地名。中世には雲林院城があり、源頼朝の御家人工藤祐長が北伊勢一帯を地頭職として納めて以来、工藤氏の分家雲林院氏が居城としていた。 雲林院(うんりんいん)

  1. 京都大徳寺の南にあった天台宗の大寺。本項目で解説。
  2. の演目。三番目物の美男物。伊勢物語を愛読する芦屋公光(きんみつ)が霊夢によって雲林院に行くと、在原業平の霊に会う、という謡曲。

雲林院門前 紫野雲林院町から撮影
雲林院境内に残る観音堂

雲林院(うんりんいん、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある。なまって「うじい」とも呼ばれた。

概要

もとは、淳和天皇離宮紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、たびたび行幸し、桜の名所として知られ、文人を交えて宴も行われていたという。

その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲った。

869年貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。884年元慶8年)、遍昭はこれを花山元慶寺の別院とし、年分度者3人を与えられて天台教学を専攻させた。その後、鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・紅葉で有名であった。

雲林院は、『今昔物語集』、『大鏡』の舞台となり、また『古今和歌集』以下の歌集で歌の名所であった。在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』にもなった。紫式部の名も「紫野雲林院」に由来するともいわれている[1]

鎌倉時代に入って衰退したものの、1324年正中元年)に復興され、大徳寺付属の子院となった。以後は禅寺となったが、応仁の乱(1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。

現在の雲林院は、1707年(宝永4年)にかつての寺名を踏襲し、大徳寺の塔頭(たっちゅう)として建てられたものである。境内に本堂はなく、堂宇(どうう)として同年に再建された観音堂が残る。ここには、十一面千手観音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像が安置されている。

発掘調査

2000年に、周辺区域のマンション建設に伴い、かつての雲林院跡の発掘調査が行われた。離宮跡であったことを裏付ける、平安時代の建物跡や井戸跡などが発見されている。

脚注

  1. ^ 京都の史跡Q&A 雲林院(うんりんいん)について教えてください。