「上杉憲栄」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
C:CITE分類-履歴2010年9月22日21:59(UTC) |
出典提示なく削除します。 |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''上杉 憲栄'''(うえすぎ のりよし、[[正平 (日本)|正平]]5年/[[貞和]]6年([[1350年]]) - [[応永]]29年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1422年]][[11月10日]]) )は、[[室町時代]]の武将。[[越後国|越後]][[守護]]。[[上杉憲顕]]の子。[[上杉能憲|能憲]]、[[上杉憲将|憲将]]、[[上杉憲賢|憲賢]]、[[上杉憲春|憲春]]、[[上杉憲方|憲方]]、[[上杉憲英|憲英]]らは兄弟 |
'''上杉 憲栄'''(うえすぎ のりよし、[[正平 (日本)|正平]]5年/[[貞和]]6年([[1350年]]) - [[応永]]29年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1422年]][[11月10日]]) )は、[[室町時代]]の武将。[[越後国|越後]][[守護]]。[[上杉憲顕]]の子。[[上杉能憲|能憲]]、[[上杉憲将|憲将]]、[[上杉憲賢|憲賢]]、[[上杉憲春|憲春]]、[[上杉憲方|憲方]]、[[上杉憲英|憲英]]らは兄弟。龍樹丸。左近将監。 |
||
正平23年/[[応安]]元年([[1368年]])、父の憲顕が没し、その跡を受けて越後守護となった。在京して幕府のために働いた。一時[[上杉朝房]]の猶子となっていたともいう。 |
正平23年/[[応安]]元年([[1368年]])、父の憲顕が没し、その跡を受けて越後守護となった。在京して幕府のために働いた。一時[[上杉朝房]]の猶子となっていたともいう。 |
2010年10月31日 (日) 16:31時点における版
上杉 憲栄(うえすぎ のりよし、正平5年/貞和6年(1350年) - 応永29年10月26日(1422年11月10日) )は、室町時代の武将。越後守護。上杉憲顕の子。能憲、憲将、憲賢、憲春、憲方、憲英らは兄弟。龍樹丸。左近将監。
正平23年/応安元年(1368年)、父の憲顕が没し、その跡を受けて越後守護となった。在京して幕府のために働いた。一時上杉朝房の猶子となっていたともいう。
天授4年/永和4年(1378年)に出家して遁世し、但馬国で月庵宗光に学び、山内家の所領であった伊豆国大見郷八幡に隠棲し如意輪寺を創建する。康暦2年(1380年)には、甲斐国の向嶽寺において父憲顕の13回忌を営む。応永29年(1422年)10月26日に如意輪寺で没した。越後守護の後継は守護代長尾高景の尽力により甥の上杉房方が継いでいる。