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== 経緯 ==
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当初、戦勝国である[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]にはドイツの戦争犯罪処罰についてドイツ人すべてが責任を負うべきであるという過激な意見('''国民責任論''')が少なからずあった。イギリス外務省の主席顧問[[ロバート・ヴァンシタート]]は、ドイツ人すべてがナチス・ドイツの戦争犯罪の責任を負うと主張していたほか、アメリカの財務長官でユダヤ系の[[ヘンリー・モーゲンソウ (政治家)|ヘンリー・モゲンソ]]は'''ドイツ農園化計画'''([[モーゲンソー・プラン]])を唱え、[[戦後]]ドイツの非工業化・脆弱化と、ドイツの分割、ドイツ兵捕虜、ナチス親衛隊員とその家族を国外強制労働処分にすることを提言した。
当初、戦勝国である[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]にはドイツの戦争犯罪処罰についてドイツ人すべてが責任を負うべきであるという過激な意見('''国民責任論''')が少なからずあった。イギリス外務省の主席顧問[[ロバート・ヴァンシタート]]は、ドイツ人すべてがナチス・ドイツの戦争犯罪の責任を負うと主張していたほか、アメリカの財務長官でユダヤ系の[[ヘンリー・モーゲンソウ (政治家)|ヘンリー・モゲンソ]]は'''ドイツ農園化計画'''([[モーゲンソー・プラン]])を唱え、[[戦後]]ドイツの非工業化・脆弱化と、ドイツの分割、ドイツ兵捕虜、ナチス親衛隊員とその家族を国外強制労働処分にすることを提言した。


これに対し、アメリカ大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]、ソ連首相[[ヨシフ・スターリン]]は、ドイツ国民全体に責任を負わせると、ドイツ人の反連合国感情が強まるのではないかと懸念し、ドイツの一般国民と権力者を区別すべきであると考えた。最終的には後者の意見が採用されることとなり、[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下のドイツ]]において、連合国はナチスドイツの権力者とドイツの民衆を区別し、戦争犯罪についてドイツ兵やナチ党員やナチ親衛隊員を裁き、ドイツの民衆は裁判の対象から外すことで、ドイツの民衆の反連合国感情を抑制することに努めた。
これに対し、アメリカ大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]、ソ連首相[[ヨシフ・スターリン]]は、ドイツ国民全体に責任を負わせると、ドイツ人の反連合国感情が強まるのではないかと懸念し、ドイツの一般国民と権力者を区別すべきであると考えた。最終的には後者の意見が採用されることとなり、[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下のドイツ]]において、連合国はナチスドイツの権力者とドイツの民衆を区別し、戦争犯罪についてドイツ兵やナチ党員やナチ親衛隊員を裁き、ドイツの民衆は裁判の対象から外すことで、ドイツの民衆の反連合国感情を抑制することに努めた。

2010年10月25日 (月) 04:21時点における版

非ナチ化(ひナチか。独:Entnazifizierung。英:denazification)は、第二次世界大戦後のドイツオーストリアで実施された、政治・経済・社会におけるナチ体制の弊害の除去である。脱ナチ化(だつナチか)ともいう。ドイツとオーストリアに限らず、ナチ政権に占領されたフランスオランダなどでも、ナチ体制の除去が行われた。

経緯

当初、戦勝国である連合国にはドイツの戦争犯罪処罰についてドイツ人すべてが責任を負うべきであるという過激な意見(国民責任論)が少なからずあった。イギリス外務省の主席顧問ロバート・ヴァンシタートは、ドイツ人すべてがナチス・ドイツの戦争犯罪の責任を負うと主張していたほか、アメリカの財務長官でユダヤ系のヘンリー・モーゲンソウドイツ農園化計画モーゲンソー・プラン)を唱え、戦後ドイツの非工業化・脆弱化と、ドイツの分割、ドイツ兵捕虜、ナチス親衛隊員とその家族を国外強制労働処分にすることを提言した。

これに対し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、ソ連首相ヨシフ・スターリンは、ドイツ国民全体に責任を負わせると、ドイツ人の反連合国感情が強まるのではないかと懸念し、ドイツの一般国民と権力者を区別すべきであると考えた。最終的には後者の意見が採用されることとなり、占領下のドイツにおいて、連合国はナチスドイツの権力者とドイツの民衆を区別し、戦争犯罪についてドイツ兵やナチ党員やナチ親衛隊員を裁き、ドイツの民衆は裁判の対象から外すことで、ドイツの民衆の反連合国感情を抑制することに努めた。

しかし、連合国はドイツ国民の戦争犯罪を裁かなかったが、ドイツ国民の政治的、道義的責任をはっきりさせることは必要であると考えていた。そこでポツダム協定において積極的にナチ党の活動に参加した者や連合国に敵対的だった人物を、公職、公職に準ずる職業、主要な民間企業の要職から排除することが謳われた。これが連合国の非ナチ化政策の根拠となった。

連合国占領時代

アメリカ占領地域

当初、アメリカの非ナチ化スタンスは積極的であった。米占領軍政府はドイツ占領基本指令1067号において、単なる名目以上のナチ党員だけではなく、ナチズムと軍国主義の支持者全員の公職、準公職から排除することとした。また、社会の要職につく人物へアンケート調査を実施し、ナチ党との関係を審査し、その結果公務員の3分の1を解雇した。

しかし、アンケート調査の対象とされた人物はアンケートの回答を誤魔化したほか、米占領軍政府も地域の人間関係を詳細に把握する能力がなく、また占領地区のドイツ人の米軍政府への不満感、不信感が高まったほか、アメリカ本国からも公正さに欠けるとの批判が出た。そのため、米占領軍政府は、ドイツの行政機構と協力して非ナチ化を進めるとし、ドイツ州政府との折衝の結果、1946年3月に「ナチズムと軍国主義からの解放のための法律」(解放令)を州法として成立させた。

解放令によって、米軍占領下の各州では解放令実施のための特命大臣が設置され、その指揮下で18歳以上の全住民対象にアンケート調査を実施し、調査の結果ナチと政治的関係の強い人物を非ナチ化審査機関で審査し、重罪者、積極分子、軽罪者、同調者、無罪者の5つに区分した上で、重罪者、積極分子を即刻解雇、罰金、労働収容所送りなどとし、軽罪者、同調者を罰金に処することとした。

ただ、ドイツ側に非ナチ化の主導権が移ったため、住民同士がかばいあったり、地元の名士に泣きついて無罪者判定を勝ち取るケースが頻発したほか、非ナチ化審査機関のスタッフも地域住民の恨みを買うことを恐れ、なり手がいないなど順調に運ばなかった。また非ナチ化による社会の各分野の人材不足が深刻化すると、ドイツ側から追放者への恩赦要求が高まり、「青少年特赦」が行われるようになったほか、冷戦激化によって、アメリカ本国の対ドイツ占領政策の基本方針が懲罰から復興に変わると、判定の引き下げ措置が行われるようになった。

ソ連占領地域

ソビエト連邦占領地区における非ナチ化は徹底していた。ソ連占領地区においては最初からドイツ人協力者、特にヴァルター・ウルブリヒトらソ連に亡命していたドイツ共産党員を中心に共産主義者に有利な非ナチ化を実現させるべく活躍した。そのため、公職追放によって空席となったポストには共産党員を中心に就くこととなり、そのため、旧来の貴族、ブルジョアジーに代わり労働者や農民の子弟が公務の中心に就いたため、非ナチ化によって政治的にも社会的にも劇的な変化を遂げることとなった。

また、ソ連はナチス・ドイツの指導者とドイツ国民は区別するというスタンスを明確にしていたため、末端の旧ナチス党員の恩赦と復権に寛大な措置を取り、1947年8月に出された「ソ連政府指令201号」において彼らの市民権の回復を保証し、内務・司法分野を除き公職に就くことが許されることとなった。

英仏占領地域

東西分断時代

1949年にドイツが東西に分断されると、西ドイツの連邦宰相に就任したコンラート・アデナウアーは非ナチ化政策について、全ドイツ人を対象に進められたことについて「多くの不幸と多くの災禍をもたらした」として、ドイツ人全員が責任を負うのではなく、一部の重大な戦争犯罪人と刑事犯のみが責任を負うべきであるとして、非ナチ化の終了を連邦政府の名によって宣言することを試みた。

そこで非ナチ化によって追放された対象について議論が行われ、キリスト教民主同盟キリスト教社会同盟社会民主党は重罪者と積極分子以外の追放者の解除を主張したのに対し、自由民主党ドイツ党は追放者の全面解除を主張した。アデナウアーは非ナチ化の全面解除が連合国高等弁務符によって反発が起こることをおそれ、最終的には前者の案である重罪者と積極分子を除く追放者解除による非ナチ化終了宣言文を1950年12月に採択し、これによって非ナチ化は終了した。

ドイツ以外における非ナチ化の状況

関連項目