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'''四辻 与津子'''(よつつじ よつこ、生年不詳<ref>『真敬法親王日記』([[陽明文庫]])[[貞享]]3年8月5日条では与津子は50才で逝去と書かれており、当該記事が正しければ、生年は[[天正]] |
'''四辻 与津子'''(よつつじ よつこ、生年不詳<ref>『真敬法親王日記』([[陽明文庫]])[[貞享]]3年8月5日条では与津子は50才で逝去と書かれており、当該記事が正しければ、生年は[[天正]]17年([[1589年]])となる。また当該条によれば、与津子の母は武家の出身だったという。</ref> - [[寛永]]15年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]<ref>『定勝公御年譜』では寛永15年11月6日死去とされている。高野山清浄心院蔵「越後国供養帳 第二」(収録『上越市史研究』第9号、2004年)においても、寛永15年11月28日に供養した記録がある。</ref>([[1639年]][[1月9日]]))は、江戸時代初期の女性。[[後水尾天皇]]の[[典侍]]。父は[[正二位]][[権大納言]][[四辻公遠]]。[[女房名]]、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は'''明鏡院'''。姉に[[上杉景勝]][[側室]]([[上杉定勝|定勝]]生母)[[桂岩院]]。 |
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はじめ[[新上東門院]]に仕え綾小路と称したが、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、[[賀茂宮]](夭逝)、[[文智女王]](梅宮)の1男1女を生む。 |
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東福門院[[徳川和子]]が後水尾天皇の[[中宮]]として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され、程なく[[落飾]]して明鏡院と称 |
東福門院[[徳川和子]]が後水尾天皇の[[中宮]]として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され([[およつ御寮人事件]])、程なく[[落飾]]して明鏡院と称し[[嵯峨]]に隠棲したといわれる。墓所は[[四辻家]][[菩提寺]]の[[京都興聖寺]]<ref>末永雅雄、西堀一三共著『文智女王』に拠る。実際の四辻家菩提寺は京都鞍馬口上善寺。</ref>および[[円照寺]]。法号は明鏡院殿一物素有無大姉。甥の[[上杉定勝]]は、志駄義繁([[志駄義秀]]嫡男)を使者として、[[高野山]]清浄心院で追福供養を行っている<ref>「越後国供養帳 第二」、『定勝公御年譜』</ref>。 |
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2010年10月15日 (金) 02:16時点における版
四辻 与津子(よつつじ よつこ、生年不詳[1] - 寛永15年12月6日[2](1639年1月9日))は、江戸時代初期の女性。後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。
はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。
東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。墓所は四辻家菩提寺の京都興聖寺[3]および円照寺。法号は明鏡院殿一物素有無大姉。甥の上杉定勝は、志駄義繁(志駄義秀嫡男)を使者として、高野山清浄心院で追福供養を行っている[4]。
脚注
- ^ 『真敬法親王日記』(陽明文庫)貞享3年8月5日条では与津子は50才で逝去と書かれており、当該記事が正しければ、生年は天正17年(1589年)となる。また当該条によれば、与津子の母は武家の出身だったという。
- ^ 『定勝公御年譜』では寛永15年11月6日死去とされている。高野山清浄心院蔵「越後国供養帳 第二」(収録『上越市史研究』第9号、2004年)においても、寛永15年11月28日に供養した記録がある。
- ^ 末永雅雄、西堀一三共著『文智女王』に拠る。実際の四辻家菩提寺は京都鞍馬口上善寺。
- ^ 「越後国供養帳 第二」、『定勝公御年譜』
参考文献
- 末永雅雄、西堀一三共著『文智女王』(円照寺、1955年)