「原田嘉種」の版間の差分
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'''原田 嘉種'''(はらだ よしたね、[[1584年]] - [[1660年]] )は、[[高祖城]]主。[[原田信種]]の長男。弟に[[原田種房]]がいる。 |
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通称は'''原田伊予'''(役職が[[伊予守]]だった)。会津藩に出仕後は原田種次と称する。 |
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[[明暦]]3年([[1657年]])、家督を長子[[原田種長|種長]]に譲り1500石を相続させ。次子には500石を分与した。第3子[[江上種弼|種弼]]は[[江上勝種]]([[江上家種]]の子)の養子となり[[江上氏]](江上氏は[[原田氏]]の分家筋に当たる)を継承した。 |
[[明暦]]3年([[1657年]])、家督を長子[[原田種長|種長]]に譲り1500石を相続させ。次子には500石を分与した。第3子[[江上種弼|種弼]]は[[江上勝種]]([[江上家種]]の子)の養子となり[[江上氏]](江上氏は[[原田氏]]の分家筋に当たる)を継承した。 |
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2010年6月20日 (日) 20:58時点における版
原田 嘉種(はらだ よしたね、1584年 - 1660年 )は、高祖城主。原田信種の長男。弟に原田種房がいる。
通称は原田伊予(役職が伊予守だった)。会津藩に出仕後は原田種次と称する。
父・信種が亡くなると家督をついで加藤清正に仕えた。しかし清正と対立し、領地没収のうえ追放処分となってしまった。
その後、弟と寺沢広高に2000石(種房は500石)で仕えるようになった。天草の乱時、富岡城で一揆軍と戦って退かせたという。しかし、正保元年(1644年)寺沢堅高(広高の子)が島原の乱の責を問われ改易処分となると、嘉種は再び浪人となった。
慶安4年(1651年)、天海の仲介により江戸で会津藩主保科正之に2000石で召し抱えられ、承応3年(1654年)に会津表留守役を命じられ会津若松に下った。
明暦3年(1657年)、家督を長子種長に譲り1500石を相続させ。次子には500石を分与した。第3子種弼は江上勝種(江上家種の子)の養子となり江上氏(江上氏は原田氏の分家筋に当たる)を継承した。