「ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン」の版間の差分

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2010年4月8日 (木) 14:22時点における版

ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウンWirich Philipp Lorenz Graf von und zu Daun, 1669年10月19日1741年7月30日)は、オーストリア貴族軍人。階位は伯爵元帥。またオーストリアの属領統治を多く経験した政治家でもあった。父のヴィルヘルム・ヨーハン・アントン・フォン・ダウン、息子のレオポルト・フォン・ダウンともに軍人。とくに息子のレオポルトはマリア・テレジアのもとで軍事の最高責任者になったことから有名である。

概歴

若いころは父の連隊で軍人としての教育を受けた。ハンガリーにおけるオスマン帝国との戦争からプリンツ・オイゲンの指揮下で戦うようになり、センタの戦いに参加した。スペイン継承戦争が始まると、オイゲンの指揮下でイタリア方面で活躍、キアリの戦いなどに参加した。

オイゲンがドイツフランドル方面に頻繁に移動したため、そのあいだはグイード・ヴァルト・リュティガー・フォン・シュターレンベルクがイタリア方面の最高指揮官となったが、その後ハンガリーでフランスに後援されたラコッツィの反乱が起こるとシュターレンベルクもそちらへ転出したため、結局ダウンがイタリアにおける常時の最高指揮官となって、サヴォイア公国ヴィットーリオ・アメデーオ2世とともにフランスと戦った。

1705年から1706年にかけて、オイゲンと主力不在のあいだのイタリアの戦いはフランスにかなり押され気味で、たまにオイゲンが戻ってきても劣勢の挽回にはならなかった。さらにはサヴォイア公国領のかなりの範囲を占領され、トリノは孤立してフランス軍に包囲された。ダウンは歩兵をまとめてトリノに籠城する一方、ヴィットーリオ・アメデーオ2世は騎兵を率いてトリノを脱出、フランス軍を包囲陣の外側から攻撃しながらオイゲンの救援を待った。冬のあいだに同盟諸国から新手の部隊と軍資金を獲得してきたオイゲンは軍を再構成するとフランス軍の妨害を突破してトリノに駆けつけ、トリノを救出した。 (トリノの戦い)

この戦いでイタリア半島のフランス軍勢力は消滅した。トリノを守り切ったダウンは高く評価され、ナポリ王国の占領を命じられた。さらには、当時フランス方に肩入れしていたローマ教皇クレメンス11世に圧力をかけるため教皇領に進軍した。結局クレメンス11世はヨーゼフ1世の弟カールスペイン王と認めた。この功績によってダウンは金羊毛騎士位を与えられた。

その後オーストリア、サヴォイア軍はトゥーロンにまで攻め込むが撤退し、戦争の重点がフランドルに移ったため以後オイゲンがやって来ることもなくなった。その後のダウンの指揮のイタリア方面での戦いは一進一退が続き、そのまま終戦を迎えた。引き続く四カ国同盟戦争で、ダウンはオーストリア軍を指揮したが、ミラッツォの戦いでスペインに敗れた。しかし戦争はオーストリアの勝利に終わり、領土を失うことはなかった。

ダウンは戦争中二回にわたってナポリ副王を務めた。その後、ネーデルラント担当大臣として南ネーデルラントへ赴いた。これは、ネーデルラント総督が名誉職的な性格が強く、実際、帝国の最高軍事責任者であるオイゲンがネーデルラントに滞在するわけにはいかないので、その代わりを務めるものであった。しかし、当時ネーデルラントでは貴族、有力商人等のオーストリア統治に対する強い反発と、それに加えて、ダウンの前任者プリエ侯爵ヘルクール・ルイス・トリネッティと、のちにオスマン帝国に亡命したことで有名なクロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァルとのあいだの対立に端を発する政治的混乱が続いていて、これを収拾するのがダウンの仕事だったのだが、結局ダウンは任務を果たせないまま、オイゲンが責任を取って総督位を返上したことに伴ってネーデルラントを去った。さらにその後はミラノ総督を長きにわたって務めた。しかしそこでも最後はポーランド継承戦争で、かつて共に戦ったサヴォイア公国改めサルデーニャ王国ミラノを占領された。

彼はウィーンに、ベルヴェデーレ宮殿ほかいくつもの大貴族の館を設計したヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントの手になる屋敷を建てた。