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2010年4月4日 (日) 06:50時点における版

 
浅井亮政
時代 戦国時代
生誕 延徳3年(1491年
死没 天文11年1月6日1542年1月21日
改名 勝政→亮政
別名 新三郎、備前守(通称)、休外宗護(号)
墓所 滋賀県長浜市の徳勝寺
氏族 浅井氏
父母 父:浅井直種 母:不明
養父:浅井直政
兄弟 諸説あり
正室:浅井直政の娘蔵屋
側室:尼子馨庵
久政高政政弘秀政山城守
海津殿松市御料(三田村定頼室)、
女子(浅井忠種室)、千代鶴(六角宗能室)、
近江の方斎藤義龍室)
養子:田屋明政
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浅井 亮政(あざい すけまさ、淺井 亮政、延徳3年(1491年) - 天文11年1月6日1542年1月21日))は、戦国時代における北近江の国人浅井氏の当主である。

経歴

誕生・家督継承

亮政は北江国人である浅井氏の庶流蔵人家直種の子に生まれた。幼年期は定かではないが、浅井氏嫡流で従兄弟浅井直政の娘蔵屋と結婚し、嫡流を継承している。

京極氏の家督争いと江北支配

亮政が浅井氏を継承した頃、浅井氏は北近江半国の守護京極氏被官であった。

この時期の京極氏の当主は高清であったが、高清が家督を次男高吉に譲る意向を示したことで、お家騒動が発生した。この時、亮政は近江国衆浅見貞則とともに、高清の長男高延を後継者に推し、高清と対立している。貞則と亮政は主君高清、高吉、そして高吉を推す上坂信光尾張に追っている。

これ以後、京極氏は国人一揆が主導することになり、亮政はその中心的役割を担ったが、高清を追う際に共に戦った浅見貞則が専横を極めたため、亮政は今度は貞則を追い、国人一揆の盟主となり、京極家中における実権を掌握した。

六角氏との対立

こうして江北における勢力を築いた亮政であったが、亮政の勢力拡大と共に南近江の守護六角定頼と対立するようになる。六角氏はもともと近江源氏佐々木氏の嫡流であり、京極氏の本家筋にあたる存在で、この時期は足利将軍を庇護して室町幕府へ関与するなど、勢力を強めていた。

もともと近江守護職であった六角氏との対立は、亮政にとって不利であり、度々侵攻を許すことになったが、配下となった国人層を掌握してこうした侵攻をかろうじてしのいでいる。

京極氏との和解と再対立

一方で亮政が傀儡化した京極氏であるが、こうした亮政の専横に不満を募らせた京極高延が父高清と和解し、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立するようになった。亮政は六角氏との対立もある中、更に京極氏と争う余力はなく、天文3年(1534年)に京極父子と和解している。

しかし、天文10年(1541年)、再び京極高延が亮政に反旗を翻した。既にこの時期、50歳になろうとしていた亮政は京極氏との対立を解決しないまま、翌天文11年(1542年)1月6日に死去した。

死後、嫡男久政と婿養子の田屋明政が家督継承を巡って争うようになり、明政が京極高延と結んで久政を攻めたため、久政は六角氏へ臣従している。

子孫

亮政は5男5女を儲けており、また婿養子として一族の田屋明政がいる。家督を相続したのは長男久政である。男系子孫は孫長政が織田信長に滅ぼされたことにより絶えている。しかし、久政の娘マリアが京極高吉に嫁いでいる為、皮肉にも亮政が終生争った京極氏として女系子孫は現代に伝わっている。

男子

女子

※『六角佐々木氏系図略』・「浅井過去帳」より

先代
初代
戦国大名浅井氏
浅井亮政
次代
浅井久政