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'''カヌシウムの戦い'''(英:Battle of Canusium)は[[第二次ポエニ戦争]]において、[[紀元前209年]]の[[夏]]、[[ハンニバル・バルカ]]率いる[[カルタゴ]]軍と[[マルクス・クラウディウス・マルケルス]]率いる[[共和政ローマ|ローマ]]軍との間で戦われた[[戦闘]]である。
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== 背景 ==
== 背景 ==
空前絶後の大敗を喫した[[カンネーの戦い]]([[紀元前216年]])の後、ローマは[[ファビウス・マクシムス]]の提案した持久戦法(徹底的にハンニバルとの交戦を避け、ハンニバルの疲弊を待つ)によってハンニバルを疲弊させようとした。ところがローマの将軍のうちマルケルスだけは、三度にわたりハンニバルから[[ノーラ (ナポリ県)|ノラ]]を守り抜いたり、[[紀元前210年]]に[[ヌミストロの戦い]]でハンニバルと引き分けるなど積極果敢にハンニバルに挑み続けた。一方ハンニバルは南[[イタリア]]でローマの同盟都市をローマから裏切らせるための活動を続けていた。

空前絶後の大敗を喫した[[カンネーの戦い]]([[紀元前216年]])の後、ローマは[[ファビウス・マクシムス]]の提案した持久戦法(徹底的にハンニバルとの交戦を避け、ハンニバルの疲弊を待つ)によってハンニバルを疲弊させようとした。ところがローマの将軍のうちマルケルスだけは、三度にわたりハンニバルから[[ノラ]]を守り抜いたり、[[紀元前210年]]に[[ヌミストロの戦い]]でハンニバルと引き分けるなど積極果敢にハンニバルに挑み続けた。一方ハンニバルは南[[イタリア]]でローマの同盟都市をローマから裏切らせるための活動を続けていた。


紀元前209年、ファビウスはハンニバル側に寝返った[[タレントゥム]]へと向い、ハンニバルのタレントゥム援助を防ぎつつ、大規模な[[会戦]]にならないように[[カヌシウム]]([[カンネー]]の南西の町)にて小競り合いを繰り返した(プルタルコス, 『対比列伝』「マルケルス」, 25)。ファビウスとの戦いから一晩明け、ハンニバルは次は新たに接近してきたマルケルスと戦う運びになった。
紀元前209年、ファビウスはハンニバル側に寝返った[[タレントゥム]]へと向い、ハンニバルのタレントゥム援助を防ぎつつ、大規模な[[会戦]]にならないように[[カヌシウム]]([[カンネー]]の南西の町)にて小競り合いを繰り返した(プルタルコス, 『対比列伝』「マルケルス」, 25)。ファビウスとの戦いから一晩明け、ハンニバルは次は新たに接近してきたマルケルスと戦う運びになった。
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2010年2月19日 (金) 16:03時点における版

カヌシウムの戦い
戦争第二次ポエニ戦争
年月日紀元前209年の夏
場所カヌシウム(現 アスコリ・サトリアーノ
結果:引き分け
交戦勢力
カルタゴ ローマ
指導者・指揮官
ハンニバル・バルカ マルクス・クラウディウス・マルケルス
戦力
不明 およそ20000
損害
戦死8000以上 戦死5700
大部分が負傷
第二次ポエニ戦争

カヌシウムの戦い英語: Battle of Canusium)は、第二次ポエニ戦争において、紀元前209年ハンニバル・バルカ率いるカルタゴ軍とマルクス・クラウディウス・マルケルス率いるローマ軍との間で戦われた戦闘である。

背景

空前絶後の大敗を喫したカンネーの戦い紀元前216年)の後、ローマはファビウス・マクシムスの提案した持久戦法(徹底的にハンニバルとの交戦を避け、ハンニバルの疲弊を待つ)によってハンニバルを疲弊させようとした。ところがローマの将軍のうちマルケルスだけは、三度にわたりハンニバルからノラを守り抜いたり、紀元前210年ヌミストロの戦いでハンニバルと引き分けるなど積極果敢にハンニバルに挑み続けた。一方ハンニバルは南イタリアでローマの同盟都市をローマから裏切らせるための活動を続けていた。

紀元前209年、ファビウスはハンニバル側に寝返ったタレントゥムへと向い、ハンニバルのタレントゥム援助を防ぎつつ、大規模な会戦にならないようにカヌシウムカンネーの南西の町)にて小競り合いを繰り返した(プルタルコス, 『対比列伝』「マルケルス」, 25)。ファビウスとの戦いから一晩明け、ハンニバルは次は新たに接近してきたマルケルスと戦う運びになった。

戦い

戦いの前にハンニバルは兵士たちに今日はこれまでになく激しく戦えと命じ、戦いに移った。続いた戦いでは、ローマ軍の右翼が苦戦していたので、マルケルスは一部隊に前進を命じたが、この移動のために戦っていた兵士たちは混乱し、ローマ軍は2700人の兵士を失う敗北を喫した(ibid, 25)。

翌日の戦いでは、双方の歩兵が互角に戦っていると、ハンニバルは敵の重装歩兵へと戦象を差し向け、象はローマ軍の戦列を蹴散らした。しかし、フラウィウスという名のローマ軍の隊長の一人が軍旗の竿で象を殴ると、その象は向きを変え、後ろの象とぶつかった。これを引き金としてカルタゴ軍の象たちは混乱し、マルケルスはそこへ騎兵を突撃させて敵の混乱をさらに大きくした。これによってカルタゴ軍の多くの兵士が死に、結果カルタゴ軍は8000人以上を、ローマ軍は3000人の兵士を失った。しかし、ローマ軍はそのほとんどが負傷しており、もはや事実上戦闘不能であった。このため、マルケルスは敵を追撃することができず、一方のハンニバルは悠然とカンパニア地方へと移動し、越冬した(ibid, 26)。

その後

その後、ハンニバルはイタリア中を荒らしまわり、カヌシウムの戦いの結果によってそれを許してしまったマルケルスは護民官プブリウス・ビブルスによって弾劾されたが、勝訴したのみならず、彼を措いてハンニバルと渡り合える者はいないとして5たび執政官に選ばれた(紀元前208年)。しかし、同年、ヴェヌシアにてマルケルスは無防備にも少数の者と共に偵察に赴いていた時に敵の待ち伏せに遭い、同僚の執政官共々戦死した(ibid, 29)。

参考文献

プルタルコス著、柳沼重剛訳、『英雄伝 2』、京都大学学術出版会2007年