「ウィレム1世 (オランダ王)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Xqbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: ro:Willem I al Ţărilor de Jos
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Infobox Monarch
{{基礎情報 君主
| 人名 = ウィレム1世
|人名 = ウィレム1世
| 各国語表記 = Willem I
|語表記 = {{Lang|nl|Willem I}}
| 君主 = オランダ王
|号 = オランダ・ルクセンブルク大公
| 画像 = Willemi.jpg
|画像 = Willem I in kroningsmantel.jpg
| 画像サイズ = 200px
|画像 =
|画像代替文 = ウィレム1世
| 画像説明 = [[w:nl:Joseph Paelinck|パエリンク]]画([[アムステルダム国立美術館]]蔵)
|画像説明 =
| 在位 = [[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]]
|地位 = [[ネーデルラント連合王国|オランダ]][[オランダ君主一覧|国王]]
| 戴冠 =
|在位 = [[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]]
| 別号 = オラニエ公<br/>[[ルクセンブルク大公]]<br/>[[リンブルフ|リンブルフ公]]
|戴冠 =
| 全名 = ウィレム・フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ
|摂政 =
| 出生日 = [[1772年]][[8月24日]]
|先代 =
| 生地 = [[画像:Prinsenvlag.svg|border|20px]] [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[デン・ハーグ]]
|次代 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1772|8|24|1843|12|12}}
|地位2 = [[ルクセンブルク]][[ルクセンブルク大公|大公]]
| = [[画像:Flag of Prussia (1803).gif|border|20px]] [[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ベルリン]]
|在位2 = [[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]]
| 埋葬日 =  
|戴冠2 =
| 埋葬地 = {{NLD}}、[[デルフト]]、新教会
| 継承者 =
|摂政2 =
| 継承形式 =
|先代2 =
|次代2 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ギヨーム2世]]
| 配偶者1 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1774-1837)|フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
|地位3 = [[リンブルフ|リンブルフ公]]
| 子女 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]<br/>[[フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881)|フレデリック]]<br/>[[パウリーネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|パウリーネ]]<br/>[[マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|マリアンネ]]
|在位3 = [[1839年]][[4月19日]] - [[1840年]][[10月7日]]
| = [[オラニエ=ナッサウ家]]
| 王朝 =
|戴冠3 =
| 王室歌 =
|摂政3 =
|先代3 =
| 父親 = [[ウィレム5世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム5世]]
|次代3 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]
| 母親 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1751-1820)|フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
|出生日 = {{生年月日と年齢|1772|8|24|no}}
|生地 = [[ファイル:Prinsenvlag.svg|border|22x20px]] [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[デン・ハーグ]]
|死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1772|8|24|1843|12|12}}
|死亡地 = [[ドイツ連邦|ドイツ]][[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ベルリン]]
|埋葬日 =
|埋葬地 = [[オランダ]]、[[デルフト]]、[[:en:Nieuwe Kerk (Delft)|新教会]]
|実名 = {{Lang|nl|Willem Frederik}}<br />ウィレム・フレデリック
|変名 =
|廟号 =
|諡号 =
|年号 =
|王朝 =
|王 = [[オラニエ=ナッサウ家]]
|父親 = [[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]
|母親 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1751-1820)|フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
|配偶者 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1774-1837)|フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
|子女 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]<br />[[フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881)|フレデリック]]<br />[[パウリーネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|パウリーネ]]<br />[[マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|マリアンネ]]
|居所 =
|信仰 = [[キリスト教]][[改革派教会]]
|親署 =
|親署代替文 =
|脚注 = 呼称は、オランダ国王・リンブルフ公としてはウィレム1世、ルクセンブルク大公としてはギヨーム1世である。<br />[[ファイル:commons-logo.svg|12px|ウィキメディア・コモンズ]] '''[[Wikipedia:ウィキメディア・コモンズ|ウィキメディア・コモンズ]]'''には、'''ウィレム1世'''に関連する'''[[:commons:Willem I der Nederlanden|マルチメディア]]'''および'''[[:commons:Category:William I of the Netherlands|カテゴリ]]'''があります。
}}
}}
'''ウィレム1世'''('''Willem I''', [[1772年]][[8月24日]] - [[1843年]][[12月12日]]、在位[[1815年]] - [[1840年]])は初代[[オランダ]]国王兼[[ルクセンブルク]]大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。
'''ウィレム1世'''('''Willem I''', [[1772年]][[8月24日]] - [[1843年]][[12月12日]]、在位[[1815年]] - [[1840年]])は初代[[オランダ]]国王兼[[ルクセンブルク]]大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。
35行目: 57行目:


ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。

{{Commons|Willem I der Nederlanden}}


{{先代次代|[[オランダ君主一覧|オランダ国王]]|1815 - 1840|([[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ローデウェイク2世]])|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]}}
{{先代次代|[[オランダ君主一覧|オランダ国王]]|1815 - 1840|([[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ローデウェイク2世]])|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]}}

2010年2月11日 (木) 05:20時点における版

{{{人名}}}
在位 1815年3月16日 - 1840年10月7日
在位 1815年3月16日 - 1840年10月7日

出生 (1772-08-24) 1772年8月24日
死去 (1843-12-12) 1843年12月12日(71歳没)
埋葬 オランダデルフト新教会
子女 ウィレム2世
フレデリック
パウリーネ
マリアンネ
父親 ウィレム5世
母親 フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン
テンプレートを表示

ウィレム1世Willem I, 1772年8月24日1843年12月12日、在位1815年1840年)は初代オランダ国王兼ルクセンブルク大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。

父はオランダネーデルラント連邦共和国)の最後の総督だったオラニエ公ウィレム5世で、母はプロイセン王女(アウグスト・ヴィルヘルム王子の娘でフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妹)ヴィルヘルミーネ。1791年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘で従妹に当たるヴィルヘルミーネと結婚した。

1795年フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。

1813年にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」の称号を受けた。ナポレオン失脚後の1815年ウィーン会議により、18世紀まで共和制を布いていたオランダとハプスブルク家の領土だった南ネーデルラントを併せて立憲君主国オランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、初代国王に即位した。また、ナッサウ家の古くからの所領であったラインラントナッサウ、ディレンブルク、ディーツなどの所領がプロイセン領に併合されるのと引き換えに、ルクセンブルク大公を兼ねることとなった。

ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北ネーデルラントは20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、1830年フランス7月革命の余波でブリュッセルでも暴動が起こり、ベルギー独立革命へと発展した。結果、ベルギーは独立してザクセン=コーブルク=ゴータ家レオポルド1世を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに1840年、退位して息子のウィレム2世に王位を譲り、1843年に死去した。

先代
ローデウェイク2世
オランダ国王
1815 - 1840
次代
ウィレム2世
先代
ルクセンブルク大公
1815 - 1840
次代
ギヨーム2世