「ウィレム1世 (オランダ王)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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|人物名 = ウィレム1世 |
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|原語表記 = {{Lang|nl|Willem I}} |
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|称号 = オランダ国王・ルクセンブルク大公 |
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|画像 = Willem I in kroningsmantel.jpg |
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|画像代替文 = ウィレム1世 |
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| 画像説明 = [[w:nl:Joseph Paelinck|パエリンク]]画([[アムステルダム国立美術館]]蔵) |
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|地位 = [[ネーデルラント連合王国|オランダ]][[オランダ君主一覧|国王]] |
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| 別号 = オラニエ公<br/>[[ルクセンブルク大公]]<br/>[[リンブルフ|リンブルフ公]] |
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| 全名 = ウィレム・フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ |
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| 出生日 = [[1772年]][[8月24日]] |
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|地位2 = [[ルクセンブルク]][[ルクセンブルク大公|大公]] |
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|在位2 = [[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]] |
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|次代2 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ギヨーム2世]] |
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|地位3 = [[リンブルフ|リンブルフ公]] |
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|在位3 = [[1839年]][[4月19日]] - [[1840年]][[10月7日]] |
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|戴冠3 = |
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|摂政3 = |
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|先代3 = |
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|次代3 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]] |
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|出生日 = {{生年月日と年齢|1772|8|24|no}} |
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|実名 = {{Lang|nl|Willem Frederik}}<br />ウィレム・フレデリック |
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|父親 = [[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]] |
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|信仰 = [[キリスト教]][[改革派教会]] |
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|脚注 = 呼称は、オランダ国王・リンブルフ公としてはウィレム1世、ルクセンブルク大公としてはギヨーム1世である。<br />[[ファイル:commons-logo.svg|12px|ウィキメディア・コモンズ]] '''[[Wikipedia:ウィキメディア・コモンズ|ウィキメディア・コモンズ]]'''には、'''ウィレム1世'''に関連する'''[[:commons:Willem I der Nederlanden|マルチメディア]]'''および'''[[:commons:Category:William I of the Netherlands|カテゴリ]]'''があります。 |
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'''ウィレム1世'''('''Willem I''', [[1772年]][[8月24日]] - [[1843年]][[12月12日]]、在位[[1815年]] - [[1840年]])は初代[[オランダ]]国王兼[[ルクセンブルク]]大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。 |
'''ウィレム1世'''('''Willem I''', [[1772年]][[8月24日]] - [[1843年]][[12月12日]]、在位[[1815年]] - [[1840年]])は初代[[オランダ]]国王兼[[ルクセンブルク]]大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。 |
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ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。 |
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。 |
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{{Commons|Willem I der Nederlanden}} |
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{{先代次代|[[オランダ君主一覧|オランダ国王]]|1815 - 1840|([[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ローデウェイク2世]])|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]}} |
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2010年2月11日 (木) 05:20時点における版
{{{人名}}} | |
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在位 | 1815年3月16日 - 1840年10月7日 |
在位 | 1815年3月16日 - 1840年10月7日 |
出生 |
1772年8月24日 |
死去 |
1843年12月12日(71歳没) |
埋葬 | オランダ、デルフト、新教会 |
子女 |
ウィレム2世 フレデリック パウリーネ マリアンネ |
父親 | ウィレム5世 |
母親 | フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン |
ウィレム1世(Willem I, 1772年8月24日 - 1843年12月12日、在位1815年 - 1840年)は初代オランダ国王兼ルクセンブルク大公(フランス語名でギヨーム1世、Guillaume I)である。
父はオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の最後の総督だったオラニエ公ウィレム5世で、母はプロイセン王女(アウグスト・ヴィルヘルム王子の娘でフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妹)ヴィルヘルミーネ。1791年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘で従妹に当たるヴィルヘルミーネと結婚した。
1795年、フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。
1813年にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」の称号を受けた。ナポレオン失脚後の1815年、ウィーン会議により、18世紀まで共和制を布いていたオランダとハプスブルク家の領土だった南ネーデルラントを併せて立憲君主国オランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、初代国王に即位した。また、ナッサウ家の古くからの所領であったラインラントのナッサウ、ディレンブルク、ディーツなどの所領がプロイセン領に併合されるのと引き換えに、ルクセンブルク大公を兼ねることとなった。
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北ネーデルラントは20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、1830年にフランス7月革命の余波でブリュッセルでも暴動が起こり、ベルギー独立革命へと発展した。結果、ベルギーは独立してザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに1840年、退位して息子のウィレム2世に王位を譲り、1843年に死去した。
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