「北条幻庵」の版間の差分
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若い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺し、のちに京都・[[三井寺]]でも修行をした。相模国に戻ってからも還俗せずに、相模中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。 |
若い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺し、のちに京都・[[三井寺]]でも修行をした。相模国に戻ってからも還俗せずに、相模中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。 |
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[[永禄]]3年([[1560年]])、長男の三郎(実子)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また[[北条氏康]]の弟[[北条氏尭]]を[[小机城]]主とした。しかし、程なく氏尭が没し、永禄12年([[1569年]])に[[武田信玄]]との[[駿河国]]([[静岡県]])の[[蒲原城の戦い]]において次男の綱重、三男の長順らを相次いで失ったため、同年、北条氏康の7男[[上杉景虎|北条三郎(上杉景虎)]]を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して'''幻庵宗哲'''と号した。 |
[[永禄]]3年([[1560年]])、長男の三郎(実子)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また[[北条氏康]]の弟[[北条氏尭]]を[[小机城]]主とした。しかし、程なく氏尭が没し、永禄12年([[1569年]])に[[武田信玄]]との[[駿河国]]([[静岡県]])の[[蒲原城の戦い]]において次男の綱重、三男の長順(時長)らを相次いで失ったため、同年、北条氏康の7男[[上杉景虎|北条三郎(上杉景虎)]]を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して'''幻庵宗哲'''と号した。 |
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[[永禄]]12年([[1569年]])、[[越相同盟]]の成立により、三郎(景虎)が越後の[[上杉謙信]]の養子となった後は、[[北条氏光]]に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・[[北条氏隆|氏隆]]に継がせた。 |
[[永禄]]12年([[1569年]])、[[越相同盟]]の成立により、三郎(景虎)が越後の[[上杉謙信]]の養子となった後は、[[北条氏光]]に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・[[北条氏隆|氏隆]]に継がせた。 |
2009年11月18日 (水) 13:01時点における版
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 明応2年(1493年) |
死没 | 天正17年11月1日(1589年12月8日) |
改名 |
菊寿丸(幼名)→伊勢長綱→北条長綱 →幻庵宗哲(戒名) |
別名 |
通称:三郎 渾名:鞍打幻庵 |
戒名 | 金龍院殿明吟哲公大居士 |
墓所 | 林際寺(静岡県賀茂郡河津町) |
主君 | 北条早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直 |
氏族 | 伊勢氏→後北条氏 |
父母 | 父:北条早雲、母:栖徳寺殿 |
兄弟 |
北条氏綱、北条氏時、葛山氏広、 北条長綱、長松院殿(三浦氏員室) |
子 |
三郎(実子)、綱重、長順、女(吉良氏朝室)、女(上杉景虎正室のち北条氏光室) 養子:上杉景虎(北条氏康の7男) |
北条 幻庵 / 北条 長綱(ほうじょう げんあん / ほうじょう ながつな)は、戦国時代の武将である。北条早雲(伊勢盛時)の3男。箱根権現社別当。金剛王院院主。
経歴
若い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺し、のちに京都・三井寺でも修行をした。相模国に戻ってからも還俗せずに、相模中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。
永禄3年(1560年)、長男の三郎(実子)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟北条氏尭を小机城主とした。しかし、程なく氏尭が没し、永禄12年(1569年)に武田信玄との駿河国(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重、三男の長順(時長)らを相次いで失ったため、同年、北条氏康の7男北条三郎(上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。
永禄12年(1569年)、越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた。
「北条氏所領役帳」によれば、五千貫文を超える家中最大の所領を領有した。
1589年に死去、享年97となるが、(これは北条五代記の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。これが事実とすれば享年は10年以上若くなる)一説に1501年生まれという説がある。幻庵の死から8ヵ月後に後北条氏は豊臣秀吉に攻められ滅亡する。
静岡県賀茂郡河津町の林際寺に位牌がある。戒名は「金龍院殿明吟哲公大居士」。
北条氏の長老的性格で、馬術や弓術に優れ、時には一軍を率いて合戦に参加した。作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道・庭園などに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。
また、氏康の娘が嫁ぐ際に「幻庵おほへ書」という礼儀作法の心得を記した書を記している。
北条五代の菩提寺である早雲寺の庭園をつくるなど、現在でもその才を偲ぶことができる。
初代北条早雲から5代氏直までの全ての当主に仕え、記録の残っている家臣では唯一、後北条氏の最初から最後までを見た人物である。