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== 概要 ==
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連明の子。母が池氏であったため、池清久の[[婿養子]]となる。[[池清景|清景]]の義弟。'''山吉伊豆守定明'''とも。[[徳治]]2年([[1307年]])、山吉の地に居城を築いて姓を山吉に改めたという。
[[佐原連明]]の子。母が[[池氏]]であったため、[[池清久]]の[[婿養子]]となる。[[池清景|清景]]の義弟。'''山吉伊豆守定明'''とも。[[徳治]]2年([[1307年]])、山吉の地に居城を築いて姓を山吉に改めたという。


池一族は平頼盛の後裔で、[[平家]]滅亡以降は細々と越後国[[蒲原郡]]を領するのみであった。その証左として、[[永仁]]年間末期に山吉定明が、[[青蓮華寺]](長久山[[本成寺]]、[[新潟県]][[三条市]]にある[[法華宗]][[陣門流]][[総本山]])を建立したという記録がある。
池一族は[[平頼盛]]の後裔で、[[平家]]滅亡以降は細々と越後国[[蒲原郡]]を領するのみであった。その証左として、[[永仁]]年間末期に山吉定明が、[[青蓮華寺]](長久山[[本成寺]]、[[新潟県]][[三条市]]にある[[法華宗]][[陣門流]][[総本山]])を建立したという記録がある。


子・長久の時代になると南北朝騒乱期に入り、[[小国氏]]・[[河内氏]]・[[高梨氏]]らと[[南朝 (日本)|南朝]]方に付くが、[[色部氏]]や[[加地氏]]に敗退した。さらに劣勢の中、[[高梨氏]]・[[市河氏]]にも敗れて[[甲信越地方]]の南朝方は窮地に立たされた。
子・[[池長久|長久]]の時代になると[[南北朝時代 (日本)|南北朝騒乱期]]に入り、[[小国氏]]・[[河内氏]]・[[高梨氏]]らと[[南朝 (日本)|南朝]]方に付くが、[[色部氏]]や[[加地氏]]に敗退した。さらに劣勢の中、[[高梨氏]]・[[市河氏]]にも敗れて[[甲信越地方]]の南朝方は窮地に立たされた。




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[[Category:池氏|しけあき]]
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[[Category:山吉氏|さたあき]]
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[[Category:佐原氏]]
[[Category:鎌倉時代の人物]]
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[[Category:新潟県の歴史]]
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2009年11月7日 (土) 20:07時点における版

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時代 鎌倉時代後期
生誕 文永5年(1268年
死没 正和2年(1313年
別名 千代松丸(幼名)、孫次郎、池定明
官位 伊豆守?
氏族 桓武平氏良文流佐原氏三浦氏族)
桓武平氏頼盛流池氏山吉氏
父母 父:佐原明連  母:池保清の娘
兄弟 女子(石坂連忠正室)、成明
女子(長尾景為正室)
正室池清久の娘
長久(山吉長久)

池 成明(いけ しげあき)は鎌倉時代武士越後山吉氏の祖。

概要

佐原連明の子。母が池氏であったため、池清久婿養子となる。清景の義弟。山吉伊豆守定明とも。徳治2年(1307年)、山吉の地に居城を築いて姓を山吉に改めたという。

池一族は平頼盛の後裔で、平家滅亡以降は細々と越後国蒲原郡を領するのみであった。その証左として、永仁年間末期に山吉定明が、青蓮華寺(長久山本成寺新潟県三条市にある法華宗陣門流総本山)を建立したという記録がある。

子・長久の時代になると南北朝騒乱期に入り、小国氏河内氏高梨氏らと南朝方に付くが、色部氏加地氏に敗退した。さらに劣勢の中、高梨氏市河氏にも敗れて甲信越地方の南朝方は窮地に立たされた。