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'''合気道'''('''あいきどう''')は、日本古来の[[柔術]]・[[剣術]]をもとに[[植芝盛平]](1883年 - 1969年)によって創始された現代[[武道]]([[護身術]])である。植芝は幼少より武術の修行に勤しみ、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・柳生心眼流柔術(やぎゅうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、1915年、[[大東流合気柔術]]宗家[[武田惣角]]([[1860年]] - [[1943年]])に入門、[[1922年]]教授代理を許された。以後、独自の修行を続け、[[1942年]]合気道の名称を用いる。戦後、のちに二代目道主となる[[植芝吉祥丸]]によって一般に普及され、知られるようになる(植芝盛平自身は普及には消極的であった)。植芝盛平が創始した(財)[[合気会]]は二代目道主・植芝吉祥丸を経て、現在の道主は植芝守央。植芝盛平のもとで修行した弟子達は、のちに独立しいくつか流派を形成している。(財)合気会以外の流派として、[[養神館合気道]]、[[氣の研究会]]([[心身統一合氣道]])、[[日本合気道協会]](富木流)等がある。 |
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技は、体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。その為、戦時中は旧[[陸軍中野学校]]や旧[[海軍]]大学校などでも科目として取り入られ、植芝盛平が教授を行っていた。戦後も、[[自衛隊]]の[[徒手格闘術]]や警察の[[逮捕術]]の技術に大きな影響を及ぼし、[[機動隊]]や警察[[特殊部隊]]などでも研修が行われている。 |
技は、体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。その為、戦時中は旧[[陸軍中野学校]]や旧[[海軍]]大学校などでも科目として取り入られ、植芝盛平が教授を行っていた。戦後も、[[自衛隊]]の[[徒手格闘術]]や警察の[[逮捕術]]の技術に大きな影響を及ぼし、[[機動隊]]や警察[[特殊部隊]]などでも研修が行われている。 |
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==大東流合気柔術との相違点== |
==大東流合気柔術との相違点== |
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技法や稽古法等は大東流合気柔術 |
技法や稽古法等は大東流合気柔術をほぼ継承している。大東流合気柔術、合気道ともに円の動きで技を仕掛けるが、大東流に比べ、合気道はより大きな円の動きで技を仕掛ける。これは植芝の修行によって至った結論と思われる。 |
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また入身技法等は起倒流柔術の影響が見られ、大東流合気柔術を基盤としつつも独自の[[武術]]を創始しようとした工夫の跡が確認出来る。 |
また入身技法等は起倒流柔術の影響が見られ、大東流合気柔術を基盤としつつも独自の[[武術]]を創始しようとした工夫の跡が確認出来る。 |
2005年8月25日 (木) 02:42時点における版
合気道(あいきどう)は、日本古来の柔術・剣術をもとに植芝盛平(1883年 - 1969年)によって創始された現代武道(護身術)である。植芝は幼少より武術の修行に勤しみ、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・柳生心眼流柔術(やぎゅうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、1915年、大東流合気柔術宗家武田惣角(1860年 - 1943年)に入門、1922年教授代理を許された。以後、独自の修行を続け、1942年合気道の名称を用いる。戦後、のちに二代目道主となる植芝吉祥丸によって一般に普及され、知られるようになる(植芝盛平自身は普及には消極的であった)。植芝盛平が創始した(財)合気会は二代目道主・植芝吉祥丸を経て、現在の道主は植芝守央。植芝盛平のもとで修行した弟子達は、のちに独立しいくつか流派を形成している。(財)合気会以外の流派として、養神館合気道、氣の研究会(心身統一合氣道)、日本合気道協会(富木流)等がある。
技は、体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。その為、戦時中は旧陸軍中野学校や旧海軍大学校などでも科目として取り入られ、植芝盛平が教授を行っていた。戦後も、自衛隊の徒手格闘術や警察の逮捕術の技術に大きな影響を及ぼし、機動隊や警察特殊部隊などでも研修が行われている。
体術の基本は関節技であるが、上達すると、各種の多彩な投げ技・極め技を身につけることができる。また体捌きを有効に使うことにより技の効力がさらに向上する。
開祖の言葉に実戦について「合気道は、当身が七分で逆・投げ三分」と言われている。
他武道に比べ、精神性が重視され、精神的な境地(合気)が技に反映される。この点が合気道の最大の特徴といえる。また戦前、植芝盛平は大本教の出口王仁三郎や玄洋社の頭山満とも親交があり宗教・政治との結びつきも強い。その為、玄洋社出身でヨーガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多い。
原則的に型稽古中心であり,柔道のような乱取りはおこなわない。ただし柔道とも関係の強い日本合気道協会のみ乱取り稽古を取り入れている。
初歩的な技
- 入り身投げ
- 相手の腕をその顔に巻きつけるようにして後方直下に倒す
- 回転投げ
- 相手の腕を前方に引き出すようにして体勢を崩し斜め前方に押し倒す
- 四方投げ
- 相手の腕を裏返しにその後頭部に回し込んで後方直下に倒す
- 小手返し
- 相手の腕を前方に引き出しつつその手首を天に返してその場に倒す
- 一教
- 肘の裏側をとって相手を地面に屈伏させる
- 二教
- 手首の横を取って脱力させ、取り回して地面に屈伏させる
- 三教
- 相手の手をひねり上げて抵抗できなくさせる
(その他の主な技:四教、五教、天地投げ、腰投げ、隅落とし、呼吸投げ、合気投げ 等)
以上の技は、各流派に存在はするが技を仕掛ける理合いの解釈の違いから、技を仕掛ける形が違うこともある。
また非科学的なものではあるが合気によって遠くの敵をたたき飛ばす「遠当て」なる技がある主張する者もいるらしい。
大東流合気柔術との相違点
技法や稽古法等は大東流合気柔術をほぼ継承している。大東流合気柔術、合気道ともに円の動きで技を仕掛けるが、大東流に比べ、合気道はより大きな円の動きで技を仕掛ける。これは植芝の修行によって至った結論と思われる。
また入身技法等は起倒流柔術の影響が見られ、大東流合気柔術を基盤としつつも独自の武術を創始しようとした工夫の跡が確認出来る。
柔道との交流
柔道の創始者、嘉納治五郎は植芝盛平の道場を訪れた事があり、その技に魅了された嘉納は講道館の高段者数名に合気道の修行をさせている。また植芝自身も新興武術である柔道の高段者から幾度と無く挑戦を受けており(そしてその全員を破っている)、合気道と柔道との間で比較的盛んに交流が行われていた。この事は当時としては珍しい事であり、植芝が合気道を単なる武術として考えていなかった事が伺える。
例えば分派した塩田剛三(養神館)も富木謙治(日本合気道協会)も植芝に入門する前は柔道の有段者であった。特に富木は植芝の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており,その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。
ハプキドー
韓国の武道ハプキドー(ハッキドー)は「合気道」の韓国読みで、合気道から発した格闘技である。