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== 登場人物 ==
== 登場人物 ==
百八星のうち「水滸伝」本編で死んだ者を除く全ての人物が登場する(本編の終了後、間も無く死んだことになっている[[関勝]]、[[呼延灼]]、[[戴宗]]を含む。また[[武松]]だけは死んだ仲間たちの遺骨を守りたいと[[六和寺]]に残り、李俊たちの仲間にならない)。その他本編終盤で李俊と義兄弟の契りを結んだ費保・倪雲・高青(本編では上青)・狄成や、[[史進]]の師匠の[[王進]]、[[扈三娘]]の兄の扈成、祝家荘の武芸師範だった[[欒廷玉]](本編では死んだとされている)、[[花栄]]の息子・[[呼延灼]]の息子・[[徐寧]]の息子などが李俊側の人物として登場する。また敵役や一般人たちの中にも本編に登場していた人物やその縁者などが数多く登場する。また、百回本の続編という体裁のため百二十回本にのみ登場する人物は登場しない。
百八星のうち「水滸伝」本編で死んだ者を除く全ての人物が登場する(本編の終了後、間も無く死んだことになっている[[関勝 (水滸伝)|関勝]]、[[呼延灼]]、[[戴宗]]を含む。また[[武松]]だけは死んだ仲間たちの遺骨を守りたいと六和寺に残り、李俊たちの仲間にならない)。その他本編終盤で李俊と義兄弟の契りを結んだ費保・倪雲・高青(本編では上青)・狄成や、[[史進]]の師匠の[[王進]]、[[扈三娘]]の兄の扈成、祝家荘の武芸師範だった[[欒廷玉]](本編では死んだとされている)、[[花栄]]の息子・[[呼延灼]]の息子・[[徐寧]]の息子などが李俊側の人物として登場する。また敵役や一般人たちの中にも本編に登場していた人物やその縁者などが数多く登場する。また、百回本の続編という体裁のため百二十回本にのみ登場する人物は登場しない。


== 水滸後伝と日本 ==
== 水滸後伝と日本 ==

2009年7月12日 (日) 22:13時点における版

水滸後伝』(すいここうでん、水滸後傳)は、中国末、初に陳忱(ちんしん)によって書かれた小説。全四十回から成る。初版刊行年は1664年。 なお、陳忱の原本の他、蔡元放が改変したものも存在する。

四大奇書」のひとつ『水滸伝(百回本)』の続編という体裁をとり、百八星の一人である主人公・混江龍李俊らが暹羅に渡り、靖康の変の混乱期に活躍する物語を描く。これは、水滸伝本編にある李俊の後日譚を敷衍したものである。なお、ここで言う暹羅とはいわゆるタイ王国の旧称ではなく、架空の南海の島国である。作品中では澎湖列島の向かいの島々と説明されている。

日本には江戸初期の元禄年間に伝わり親しまれた。日本語訳には鳥居久靖訳と寺尾善雄訳がある。

あらすじ


注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。


北宋に束の間の平和をもたらした梁山泊集団の崩壊から数年後、相変わらず世には悪官汚吏がはびこっていた。官職を剥がれ再び漁師として生活していた阮小七はふと昔を懐かしみ、宋江晁蓋ら昔の仲間たちの眠る梁山泊へ足を運ぶ。

そこへ、かつて梁山泊へ招安の使者としてやってきたことのある張通判が現れる。張通判が阮小七にちょっかいを出したことから阮小七は張通判を殺してしまい、逃亡することになる。この事件をきっかけに、生き残りの梁山泊の魔星たちは再び運命の糸に操られ、北宋を揺るがす大きな時代のうねりに巻き込まれていく事になる。

登場人物

百八星のうち「水滸伝」本編で死んだ者を除く全ての人物が登場する(本編の終了後、間も無く死んだことになっている関勝呼延灼戴宗を含む。また武松だけは死んだ仲間たちの遺骨を守りたいと六和寺に残り、李俊たちの仲間にならない)。その他本編終盤で李俊と義兄弟の契りを結んだ費保・倪雲・高青(本編では上青)・狄成や、史進の師匠の王進扈三娘の兄の扈成、祝家荘の武芸師範だった欒廷玉(本編では死んだとされている)、花栄の息子・呼延灼の息子・徐寧の息子などが李俊側の人物として登場する。また敵役や一般人たちの中にも本編に登場していた人物やその縁者などが数多く登場する。また、百回本の続編という体裁のため百二十回本にのみ登場する人物は登場しない。

水滸後伝と日本

物語終盤に日本国が登場し、李俊の軍と戦うことになる。日本の軍を率いる(薩摩大隅の兵を率いている)人物は「関白」と呼ばれるが、名前は書かれていない。作者が明末清初の人間で、明の滅亡前に文禄・慶長の役があったことから、豊臣秀吉をイメージした可能性がある。この関白なる人物は身の丈八尺で、象に乗っており、日本人の目で見るととても日本の軍とは思えないのだが、ここは単に「中国以外の国の軍」くらいのイメージで読むのが良いだろう。また李応らが舟で難破し薩摩に漂着する場面があり、ここで薩摩の地は土地が貧しく、住民は海賊行為で生計を立てていると説明されている。

日本への影響

水滸後伝が日本に伝わったのは初版発行の約30年後、元禄16年(1703年)である。曲亭馬琴は水滸後伝をかなり苦労して入手している。その時の記録によれば「江戸の芝にあった書店に水滸後伝が入荷したので、買いにやらせたがすぐに売り切れてしまった」「世にまれな書物である」「大坂の書店に訪ねて回ったが水滸後伝という本を知っている本屋がおらず困った」「大坂の書店にあるという話を聞き購入したが無下の悪本で彫り誤りが多く、友人から借りた本で修訂した」などとあり、江戸時代にはまれな書物であったが一定の読者を持っていたことがわかる。

関連項目

参考ページ