「ガリア人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
+interlang
m →‎歴史: リンク修正
4行目: 4行目:


==歴史==
==歴史==
ガリア諸部族(ガリア人)は、長い期間にわたって互いに反目しあい、統一されることはなかった。[[紀元前58年]]に[[ヘルウェティ族]]の西進を契機として、[[共和政ローマ]]の武将[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]がガリア制圧の侵略戦争を開始した([[ガリア戦争]])。これに対する諸部族の反応は、応戦・帰服と変転したが、紀元前54~52年頃に[[アルウェルニ族]]の[[ウェルキンゲトリクス]]を盟主として一致団結して大反乱を起こした。そして一時はカエサルを窮地に追い詰めたが、最終的にはカエサルに敗れ去った。
ガリア諸部族(ガリア人)は、長い期間にわたって互いに反目しあい、統一されることはなかった。[[紀元前58年]]に[[ヘルウェティ族]]の西進を契機として、[[共和政ローマ]]の武将[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]がガリア制圧の侵略戦争を開始した([[ガリア戦争]])。これに対する諸部族の反応は、応戦・帰服と変転したが、紀元前54~52年頃に[[アルウェルニ族]]の[[ウェルキンゲトリクス]]を盟主として一致団結して大反乱を起こした。そして一時はカエサルを窮地に追い詰めたが、最終的にはカエサルに敗れ去った。


[[ローマ帝国]]の支配に組み込まれたガリア諸部族はローマへの同化が進み([[ガロ・ローマ文化]])、やがて[[ゲルマン人]]とも混血が進んで、後の[[フランク王国]]・[[フランス]]を形成していった。
[[ローマ帝国]]の支配に組み込まれたガリア諸部族はローマへの同化が進み([[ガロ・ローマ文化]])、やがて[[ゲルマン人]]とも混血が進んで、後の[[フランク王国]]・[[フランス]]を形成していった。
13行目: 13行目:
* [[ブレンヌス]](セノネス族)
* [[ブレンヌス]](セノネス族)
* [[ウェルキンゲトリクス]](アルウェルニ族)
* [[ウェルキンゲトリクス]](アルウェルニ族)
* [[ウェルクロエティウス]](ヘルウェティ族)
* [[ウェルクロエティウス]](ヘルウェティ族)
* [[オルゲトリクス]](ヘルウェティ族)
* [[オルゲトリクス]](ヘルウェティ族)
* [[カスティクス]](セクアニ族、カタマンタロエディスの息子)
* [[カスティクス]](セクアニ族、カタマンタロエディスの息子)
* [[カタマンタロエディス]](セクアニ族)
* [[カタマンタロエディス]](セクアニ族)

2009年3月5日 (木) 16:15時点における版

ガリア人ラテン語: Gallī ガッリー、フランス語:Gaulois ゴルワ)は、ケルト語派を話すいわゆるケルト人のうち、ガリア地域に居住してガリア語あるいはゴール語を話した諸部族の人々を指す。

古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリア人」 (Gallī)と「ケルト人」 (Celtae) をおおむね同義として扱った。しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジアに移住したケルト人(ガラティア人)やブリテン島の諸部族に対してガリア人は明らかに区別することができよう。

歴史

ガリア諸部族(ガリア人)は、長い期間にわたって互いに反目しあい、統一されることはなかった。紀元前58年ヘルウェティイ族の西進を契機として、共和政ローマの武将ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア制圧の侵略戦争を開始した(ガリア戦争)。これに対する諸部族の反応は、応戦・帰服と変転したが、紀元前54~52年頃にアルウェルニ族ウェルキンゲトリクスを盟主として一致団結して大反乱を起こした。そして一時はカエサルを窮地に追い詰めたが、最終的にはカエサルに敗れ去った。

ローマ帝国の支配に組み込まれたガリア諸部族はローマへの同化が進み(ガロ・ローマ文化)、やがてゲルマン人とも混血が進んで、後のフランク王国フランスを形成していった。

現代のフランス人(白人)は、ガリア人を自分たちのルーツ・祖先として意識している。このため、アフリカ系アラブ系の移民系フランス人に対して、フランス出身の白人をゴルワ (Gaulois) 、つまりガリア人と呼び分けることがある。また、現在でもギリシア語ではフランスをガリア Γαλλία と呼ぶ。

著名なガリア人の人物

関連項目

参考文献

  • カエサル 『ガリア戦記』 講談社〈講談社学術文庫〉、あるいは岩波書店〈岩波文庫〉。
  • 言語学大辞典』第1巻、三省堂。
    ゴール語の項は、ガリア語とゴール語のちがい、ケルト諸語との関係に詳しい。

ja:ガリアの部族一覧