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'''畠山 政国'''(はたけやま まさくに、? - [[文明 (日本)|文明]]([[1470年]])10月)は、[[室町時代]]の人物。[[畠山義有]]の子。[[畠山義就]]の猶子。次郎。
'''畠山 政国'''(はたけやま まさくに、? - [[文明 (日本)|文明]]([[1470年]])10月)は、[[室町時代]]の人物。[[畠山義有]]の子。[[畠山義就]]の猶子。次郎。


能登畠山氏出身で、[[畠山義忠]]の孫、[[畠山義統]]の弟にあたる。畠山氏の内紛の際、能登畠山氏は義就を支持し、政国を義就の猶子とし関係を強化した。[[応仁の乱]]の際は義就に味方し活躍するも、義就に実子の[[畠山修羅]]が誕生すると追放され、[[越前国|越前]]において[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]により殺害されている。
能登畠山氏出身で、[[畠山義忠]]の孫、[[畠山義統]]の弟にあたる。畠山氏の内紛の際、能登畠山氏は義就を支持し、政国を義就の猶子とし関係を強化した。[[応仁の乱]]の際は義就に味方し活躍するも、義就に実子の[[畠山政久|畠山修羅]]が誕生すると追放され、[[越前国|越前]]において[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]により殺害されている。


[[Category:室町時代の人物|はたけやま まさくに]]
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2009年2月4日 (水) 09:33時点における版

畠山 政国

  1. 室町時代中期、能登畠山氏の出身の人物。前段を参照。
  2. 室町時代後期(戦国時代)、河内畠山氏の人物。後段を参照。

畠山政国 (能登畠山氏)

畠山 政国(はたけやま まさくに、? - 文明1470年)10月)は、室町時代の人物。畠山義有の子。畠山義就の猶子。次郎。

能登畠山氏出身で、畠山義忠の孫、畠山義統の弟にあたる。畠山氏の内紛の際、能登畠山氏は義就を支持し、政国を義就の猶子とし関係を強化した。応仁の乱の際は義就に味方し活躍するも、義就に実子の畠山修羅が誕生すると追放され、越前において朝倉孝景により殺害されている。

畠山政国 (河内畠山氏、畠山尾州家)

畠山 政国(はたけやま まさくに、? - 天文19年(1550年)?)は戦国時代の人物。紀伊河内守護大名戦国大名畠山尚順の子で、畠山稙長長経の弟。晴熈の兄。畠山高政政尚昭高の父。三郎。上総介、修理大夫、播磨守、尾張守。後昌院、花園宗貞。高屋城主。

稙長が畠山総州家の家臣木沢長政によって追放され、続いてもう一人の兄である長経が暗殺されると、長政により当主として擁立され、総州家の畠山在氏と協調して統治にあたった。しかし政国は在氏と同様傀儡であり、実権は長政や遊佐長教が握っていた。1542年、木沢長政が太平寺の戦いで戦死すると後ろ盾を失い、重臣によって河内から追放され紀伊国にて出家した。1545年に当主として復帰した稙長が没すると、長教が推す弟の畠山晴熈が当主となり、政国はその後見にあたった。晴熈の引退後は政国の嫡男である畠山高政が当主となっている。晩年には出家した。

1550年(天文19年)に没したといわれているが、1552年(天文21年)の段階で隠居として健在であった記録が存在する。そのため、現在では天文年間末期頃の死没とする見方もある。

先代
畠山稙長
河内畠山氏 (尾州家)
畠山政国
次代
畠山晴熈