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2009年1月28日 (水) 04:10時点における版
陳 毅(ちん き、簡体字: 陈毅, 拼音: , 1901年8月26日 - 1972年1月6日)は、中華人民共和国の軍人・外交官・政治家。中華人民共和国元帥、外交部長、副総理。
生涯
四川省楽至県生まれ。1919年にフランスへ留学し、帰国して1923年に中国共産党入党。1927年の南昌蜂起に葉挺の幕僚として参加。失敗した後に朱徳と共に井崗山に退く。長征中は項英とともに南方でゲリラ戦を展開。皖南事変で新四軍軍長代理代理、国共内戦では華東野戦軍司令官・政治委員、第三野戦軍司令員・政治委員。中華人民共和国建国後、十大元帥の1人となる。
1949年に上海市長、1954年から副総理・中国共産党中央軍事委員会副主席。1958年、中華人民共和国外交部長として周恩来とともに外交政策に携わり、党の代表団を率いてソ連共産党第19回代表大会に出席。同年北朝鮮へ周恩来に随行し、朝鮮戦争で北朝鮮に残った「志願兵」の帰国問題を処理した。
文化大革命が始まると外交、軍事両方の重要人物として林彪ら文革派の批判を受ける。「林彪は昔の部下」とあしらっていたものの、上海奪権に業を煮やした政治局委員らが中央文革小組を批判すると、これを二月逆流として毛沢東に逆批判され、譚震林らが自己批判するとともに職務停止。実権は林彪や中央文革小組に移った。翌1968年に河北省石家庄の製薬工場で労働することを命じられる。国内外での声望に配慮され1969年の九全大会で中央委員の地位は確保したが、すでに有名無実となっていた。
1971年、北京三〇一病院で直腸がん治療の手術を受ける。加療中の9月に林彪が「墜落死」すると、古参同志の座談会に出席して林彪の反党的行為について長い発言をした。翌1972年に死去。その葬儀には毛沢東が出席した。
エピソード
- 1963年10月、日本記者団に対して「中国はどれほど貧しくとも核を作る」と発言し、内外を騒がせた。
- 二月逆流以降、人民大会堂で開催された外事関連団体の批判大会に出席した陳毅は、慣例となっていた『毛沢東語録』読み上げに際して271ページを開くよう大声を出し、語録が270ページまでしかないと造反派の参加者が気づくと「陳毅はよき同志なり」と叫んだ。同席していた周恩来が「(主席は)こう言われた」と説明し、会場は静まったという。
1972年1月10日の葬儀には毛沢東が突然弔問に訪れ、張茜未亡人ら遺族に哀悼の意を伝え「彼は立派な男だった。」と評価し林彪の陰謀を批判した。これは、毛が文革派から距離を置くきっかけでもあった。
関連項目
外部サイト
- 中国外交部による紹介(中国語)
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