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2009年1月4日 (日) 01:51時点における版

アサンドロス(希:Άσανδρoς、英:Asander、紀元前4世紀)はアレクサンドロス3世に仕えた将軍であり、ディアドコイの一人である。

アレクサンドロスの元で

アサンドロスはフィロタスの子であり、フィリッポス2世、アレクサンドロス3世の二代に亘って仕えた重臣パルメニオンの兄弟である。彼はアレクサンドロスの東征に参加し、紀元前324年サルディス無血占領時には王によってスピトリダテスペルシアダレイオス3世下のリュディアイオニア太守)の太守領であったリュディアとその他の太守に任じられ、同時に支配を維持するのに十分なだけの騎兵軽装歩兵とその指揮権もまた与えられた。(アリアノス、『アレクサンドロス大王東征記』Ⅰ、17)紀元前328年の初めにはアサンドロスとネアルコス(当時はリュキアパンピュリア太守)はギリシア人傭兵をその時ザリアスパにいた王の元まで引率してきた。(ibid、Ⅳ、7)

アレクサンドロス死後、そしてディアドコイ戦争

紀元前323年のアレクサンドロスの死後の帝国の属領と地位の分割(バビロン会議)では、アサンドロスはカリアの太守位を得た。彼はアンティパトロスの下でペルディッカス派の将軍アッタロスアルケタスと戦ったが、彼らに敗れた。しかし、ペルディッカス亡き後のトリパラディソスの軍会紀元前321年)では、これまでの地位を維持した。

紀元前317年フリュギア太守アンティゴノスペルシアメディアでのカッパドキア太守エウメネスとの戦いで忙しかった間、アサンドロスは小アジアでの勢力を増大し、プトレマイオスカッサンドロスによって結成された対アンティゴノス同盟のメンバーにもなった。紀元前315年、エウメネスを下したアンティゴノスがアサンドロスの同盟者に対する作戦行動を開始した時、アンティゴノスはアミソス(現トルコサムスン)を救出し、侵攻したアサンドロスの兵をカッパドキアから追放するために兵を預けて甥のプトレマイオス(en:Ptolemy (general))を送ったが、アサンドロスはプトレマイオスとカッサンドロスに助けられつつ紀元前313年まで占領地を維持した。しかしその後、アンティゴノスは彼に対して進撃して彼を降伏させ、全軍を拘束した。これによってアンティゴノスはアサンドロスに対して沿岸のギリシア都市の自由を復活させ、カリアの太守位をアンティゴノスに譲り、人質として兄弟のアガトンを差し出すという条件の講和の締結を強いた。しかし数日後アサンドロスはこの屈辱的な協定を破り、アンティゴノスの手からアガトンを取り戻そうとし、プトレマイオスとセレウコスに助力の使節を送った。アンティゴノスはアサンドロスのこの行動に憤慨し、すぐに軍を送り、アンティゴノスによってカリアは征服された。この時を境にアサンドロスは歴史の表舞台から消え、その後の彼の消息は不明である。