「佐古純一郎」の版間の差分
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2008年12月2日 (火) 01:54時点における版
佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年3月7日 - )は文芸評論家、二松学舎大学名誉教授、中渋谷教会名誉牧師。
略歴
大正8年(1919年)、徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て朝鮮全羅南道光州東中学校を卒業。
昭和13年(1938年)、二松学舎専門学校入学。在学中の昭和15年(1940年)に亀井勝一郎を訪問。以後師事する。昭和16年(1941年)、二松学舎専門学校卒業。同年、日本大学法文学部宗教学科入学。同年5月、改造社が募集した第一回文芸推薦評論に『歴史と人間』が佳作入選。大学在学中の昭和18年(1943年)、創元社に入社。小林秀雄に知遇を得て、以後指導を受ける。同年日本大学を繰り上げ卒業。
昭和19年(1944年)、海軍の召集を受け、対馬海軍警備隊の通信隊付の暗号兵に配属。昭和20年(1945年)8月、対馬の竹敷にて終戦を迎える。
昭和23年(1948年)、日本基督教団中渋谷教会にて洗礼を受ける。昭和24年(1949年)、日本聖書神学校本科入学、昭和26年(1951年)に退学。同年、第一論評集『純粋の探求』を出版。
昭和29年(1954年)、文学界の第一回課題評論に『椎名麟三論』が入選。同年8月、創元社退職。9月、角川書店入社。
昭和32年(1957年)、朝日新聞に「文学はこれでいいのか」を発表。「文学はこれでいいのか」論争の発端となる。同年9月、角川書店退職。以後、執筆生活に入る。
文芸評論を主として執筆活動をする傍ら、宇都宮大学、聖心女子大学、上智大学、日本女子大学、二松学舎大学等の講師を歴任し、二松学舎大学教授、学校法人二松学舎理事等を経て、昭和61年(1986年)、二松学舎大学学長に就任。
平成2年(1990年)、二松学舎大学名誉教授。
人物
二松学舎専門学校在学中に亀井勝一郎に師事し、評論家となることを決意する。
創元社時代のエピソードを隆慶一郎が記しており、それによると、編集会議において佐古純一郎は自身が提出した企画をめぐり、小林秀雄(当時、創元社の編集顧問)と論争となり、小林秀雄から殴られて2階の階段から落ちたという[1]。なお、隆慶一郎は小林秀雄が編集顧問であった時期の創元社・東京支店について、「奇妙な出版社だった」、営利団体ではなく小林秀雄らによる「正に一個の塾だった」とその印象を述べている[2]。
戦後、若手文芸評論家として台頭し、キリスト教を交えた独特の文芸評論を確立し、椎名麟三、遠藤周作、三浦綾子らと親交を持った。
評論活動と同時に各大学でも教鞭を取り、後に二松学舎大学学長に就任した。
著書
- 純粋の探求
- 信仰と文学
- 純粋の探求
- 小林秀雄ノート
- 孤独なる信徒
- 文学はこれでいいのか
- 近代日本文学の悲劇
- 文学に何を求めるか
- 文学的人生論
- 大いなる邂逅
- 太宰治におけるデカダンスの倫理
- 文学をどう読むか
- 宗教と文学
- 生きること愛すること
- 佐古純一郎著作集
- 現代人は愛しうるか
- 「罪と罰」ノート
- 生きる意味について
- 戦後文学論
- 太宰治論
- 近代日本文学とキリスト教
- 文学の探求
- 椎名麟三と遠藤周作
- 夏目漱石論
- 聖書をどう読むか
- 私の出会い
- 祈る人―キリスト教入門
- 漱石詩集全釈
- 森有正の日記
- パウロと親鸞
- 三浦綾子のこころ
- キリスト教入門
- 夏目漱石の文学
- 漱石論究
- 老いを豊かに生きる
参考文献
- 佐古純一郎教授退任記念論文集(朝文社)
- 「私の出会い」佐古純一郎(審美社)