「松平家忠 (形原松平家)」の版間の差分

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#[[形原松平家]]第5代当主。通称は'''紀伊守'''・又七郎法名淨雲。第4代当主[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]の子。[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]]) - [[天正]]10年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1582年]][[11月11日]]。母は[[於大の方]]の姉、[[於丈の方]]。[[徳川家康]]の従兄弟。子[[松平家信]]([[摂津国]][[高槻藩]]および[[下総国]][[佐倉藩]]主)。
'''松平 '''(まつだいら いえただ、[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]]) - [[天正]]10年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1582年]][[11月11日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の人物。[[形原松平家]]第5代当主。通称は'''紀伊守'''・又七郎、法名淨雲。第4代当主[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]の子。母は[[於大の方]]の姉、[[於丈の方]]。[[徳川家康]]の従兄弟。弟に松平左近。子[[松平家信]]([[摂津国]][[高槻藩]]および[[下総国]][[佐倉藩]]主)。

母の於丈の方は於大の方が[[松平広忠]]に離縁され実家の[[水野氏]]へ戻された際、共に実家に戻されている。

主家の[[松平氏]]と同様[[今川氏]]に従属し、家忠の弟の左近が竹千代と共に[[人質]]になり今川方に送られていたが、[[1560年]]に[[今川義元]]が[[桶狭間の戦い]]で討ち死し今川氏が弱体化すると、主家の[[徳川家康|松平元康]]と共に形原松平家は今川氏より離反した際に、左近は処刑されている。後に家忠が成人し当主となると、家康に従い、[[三河一向一揆|一向一揆]]と戦い、また、今川方の吉田城攻めにおいては奮戦し勝利し左近の仇である[[小原鎮実]]を破った。後に[[駿河国|駿河]]を追われ掛川城に逃れた[[今川氏真]]を家康が攻略した際には、氏真を[[後北条氏|北条氏]]の領地である[[伊豆国]]へ護送する任を果たした。[[1575年]]の[[長篠の戦い]]にも参戦し活躍する。[[1582年]]に形原において死去。

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2008年11月15日 (土) 01:36時点における版

松平 家忠(まつだいら いえただ、天文16年(1547年) - 天正10年10月16日1582年11月11日))は、戦国時代安土桃山時代の人物。形原松平家第5代当主。通称は紀伊守・又七郎、法名淨雲。第4代当主松平家広の子。母は於大の方の姉、於丈の方徳川家康の従兄弟。弟に松平左近。子に松平家信摂津国高槻藩および下総国佐倉藩主)。

母の於丈の方は於大の方が松平広忠に離縁され実家の水野氏へ戻された際、共に実家に戻されている。

主家の松平氏と同様今川氏に従属し、家忠の弟の左近が竹千代と共に人質になり今川方に送られていたが、1560年今川義元桶狭間の戦いで討ち死し今川氏が弱体化すると、主家の松平元康と共に形原松平家は今川氏より離反した際に、左近は処刑されている。後に家忠が成人し当主となると、家康に従い、一向一揆と戦い、また、今川方の吉田城攻めにおいては奮戦し勝利し左近の仇である小原鎮実を破った。後に駿河を追われ掛川城に逃れた今川氏真を家康が攻略した際には、氏真を北条氏の領地である伊豆国へ護送する任を果たした。1575年長篠の戦いにも参戦し活躍する。1582年に形原において死去。