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2008年9月9日 (火) 08:30時点における版
久我 通言(こが みちのぶ、長享元年(1487年) - 天文12年(1543年)2月)は、室町時代後期の公卿。戦乱期の後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。道号は柏仲。父は右大臣久我豊通。妻は徳大寺実淳の娘。子に権大納言久我邦通、徳大寺公維、西園寺実宣室。養子に権大納言久我晴通(近衛家より)、養女に慶子(九条稙通政所)。
長享3年(1489年)叙爵して以降累進して、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、文亀2年(1502年)従三位となり公卿に列する。永正3年(1506年)権中納言となる。永正11年(1514年)に権大納言となる。大永元年(1521年)右近衛大将となる。大永3年(1523年)内大臣に任じられる。大永4年(1524年)右近衛大将を辞職。享禄元年(1528年)右大臣となる。天文4年(1535年)従一位となる。翌年に父豊通が没し、悲観して50歳にして出家して朝廷を去った。
子の邦通が若くして死去したあとには近衛家から晴通を養子として迎え、跡を継がせている。
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