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'''京極 為兼'''(きょうごく ためかね、[[建長]]6年([[1254年]]) - [[元徳]]4年/[[元弘]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[1332年]][[4月16日]]))は、[[鎌倉時代]]後期の[[歌人]]。父は[[藤原家]]の3男で京極家の祖[[京極為教]]。母は[[三善雅衡]]の娘。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。
'''京極 為兼'''(きょうごく ためかね、[[建長]]6年([[1254年]]) - [[元徳]]4年/[[元弘]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[1332年]][[4月16日]]))は、[[鎌倉時代]]後期の[[歌人]]。藤原定家に遡る和歌の家として知られる藤原[[御子左家]]の出自、父は京極家の祖となる[[京極為教]]。母は[[西園寺家]]の家司である[[三善雅衡]]の娘。同母姉に京極為子がいる。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。


== 略歴 ==
若い頃に祖父藤原為家に[[和歌]]を学んだ。[[1280年]]([[弘安]]3年)東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]側公家として皇統の迭立に関与したことから、[[1298年]]([[永仁]]6年)[[佐渡国]]に配流となった。[[1303年]]([[嘉元]]元年)に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって[[二条為世]]と論争するが、[[院宣]]を得て[[1312年]]([[正和]]元年)「[[玉葉和歌集]]」を撰集している。翌[[1313年]](正和2年)[[伏見上皇]]とともに[[出家]]し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。[[1315年]](正和4年)再び[[鎌倉幕府]]の[[六波羅探題]]に捕らえられ、翌[[1316年]](正和5年)[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と鎌倉幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある
父為教28歳の頃に生まれる。為教は非参議の延臣で、歌道においては宗家の兄為氏と不和で対抗意識を持っていたことが指摘されている。為兼は幼少時の初学期から二条為氏の子為世とともに祖父[[藤原為家]]から[[和歌]]を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して[[西園寺実兼]]に仕え、「為兼」の名は実兼の[[偏諱]]であると考えられている。健治2年(1276年)には亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている。

[[1280年]]([[弘安]]3年)東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]側公家として皇統の迭立に関与したことから、[[1298年]]([[永仁]]6年)[[佐渡国]]に配流となった。[[1303年]]([[嘉元]]元年)に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって[[二条為世]]と論争するが、[[院宣]]を得て[[1312年]]([[正和]]元年)「[[玉葉和歌集]]」を撰集している。翌[[1313年]](正和2年)[[伏見上皇]]とともに[[出家]]し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。

[[1315年]](正和4年)再び[[鎌倉幕府]]の[[六波羅探題]]に捕らえられ、翌[[1316年]](正和5年)[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と鎌倉幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。


家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「[[玉葉和歌集]]」「[[風雅和歌集]]」に和歌が入集している。
家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「[[玉葉和歌集]]」「[[風雅和歌集]]」に和歌が入集している。

2008年8月8日 (金) 04:25時点における版

京極 為兼(きょうごく ためかね、建長6年(1254年) - 元徳4年/元弘2年3月21日1332年4月16日))は、鎌倉時代後期の歌人。藤原定家に遡る和歌の家として知られる藤原御子左家の出自で、父は京極家の祖となる京極為教。母は西園寺家の家司である三善雅衡の娘。同母姉に京極為子がいる。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。

略歴

父為教28歳の頃に生まれる。為教は非参議の延臣で、歌道においては宗家の兄為氏と不和で対抗意識を持っていたことが指摘されている。為兼は幼少時の初学期から二条為氏の子為世とともに祖父藤原為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕え、「為兼」の名は実兼の偏諱であると考えられている。健治2年(1276年)には亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている。

1280年弘安3年)東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、1298年永仁6年)佐渡国に配流となった。1303年嘉元元年)に帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て1312年正和元年)「玉葉和歌集」を撰集している。翌1313年(正和2年)伏見上皇とともに出家し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。

1315年(正和4年)再び鎌倉幕府六波羅探題に捕らえられ、翌1316年(正和5年)土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と鎌倉幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。

家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」に和歌が入集している。

伝記

  • 今谷明『京極為兼 忘られぬべき雲の上かは』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2003年) ISBN 4623038092
  • 井上宗雄『京極為兼』(吉川弘文館人物叢書、2006年) ISBN 4642052364