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井陘の戦いの後、張耳は漢王・[[劉邦]]によって趙の王となった。その後、張耳は年老いたこともあり、戦乱に身を投じることもなく、静かに暮らしたという。そして二年後の[[紀元前202年]]、張耳は死去した。
井陘の戦いの後、張耳は漢王・[[劉邦]]によって趙の王となった。その後、張耳は年老いたこともあり、戦乱に身を投じることもなく、静かに暮らしたという。そして二年後の[[紀元前202年]]、張耳は死去した。
次男の張敖が跡を継いだ。張敖には既に先妻がいて息子達を儲けていたが、劉邦の娘の[[魯元公主]]を正室として娶り、その間に[[張偃]]が生まれたので、これを嫡子とした。[[紀元前198年]]、趙の[[廷尉]]の[[貫高]]らがクーデターを起こした罪によって張敖は王位を剥奪され、宣平侯に降格された。[[紀元前189年]]に張敖は亡くなり、嫡子の張偃が跡を継いだ。[[紀元前180年]]、[[陳平]]や[[周勃]]等の元勲達や劉邦の孫らによるクーデターが発生し、[[呂雉]]の血筋を引いている張偃ら兄弟が粛清されそうになるが、亡き魯元公主の子ということで、爵位剥奪で済んだ。その代わり、張偃の異母兄の張寿は学昌侯に、もう一人の異母兄の張侈は信都侯として封じられることになる。(共に張敖の先妻の子)
次男の張敖が跡を継いだ。張敖には既に先妻がいて息子達を儲けていたが、劉邦の娘の[[魯元公主]]を正室として娶り、その間に[[張偃]]が生まれたので、これを嫡子とした。[[紀元前198年]]、趙の[[廷尉]]の[[貫高]]らがクーデターを起こした罪によって張敖は王位を剥奪され、宣平侯に降格された。[[紀元前189年]]に張敖は亡くなり、嫡子の張偃が跡を継いだ。[[紀元前180年]]、[[陳平]]や[[周勃]]等の元勲達や劉邦の孫らによるクーデターが発生し、[[呂雉]]の血筋を引いている張偃ら兄弟が粛清されそうになるが、亡き魯元公主の子ということで、爵位剥奪で済んだ。その代わり、張偃の異母兄の張寿は学昌侯に、もう一人の異母兄の張侈は信都侯として封じられることになる。(共に張敖の先妻の子)
しばらくして、[[文帝 (漢)|文帝]]が即位すると、張偃は爵位を復帰することになり、今度は新たに南宮侯として以後も存続した。
しばらくして、[[文帝 (漢)|文帝]]が即位すると、張偃は爵位を復帰することになり、今度は新たに南宮侯として以後も存続


、[[前涼]]を建国した[[張軌]]は張耳の17世孫に当たる。
なお、[[前涼]]を建国した[[張軌]]は張耳の17世孫に当たる([[晋書]] 張軌伝)


== 関連 ==
== 関連 ==

2008年6月24日 (火) 03:49時点における版

張 耳(ちょう じ、生年不明 - 紀元前202年)は、末から前漢初期にかけての武将及び趙王。

青年時代

出身は大梁。青年時代に魏の公子である信陵君食客になったことがある。後に事情あって、外黄に移住した。現地の富豪の娘を娶り、妻の実家の援助で、魏に仕官し、外黄県令となった。この頃に長男(名は不詳)や次男の張敖が誕生したらしい。無名時代の劉邦も張耳を慕ってその食客になったことがあるという。

この頃に同郷の陳余と知り合いって意気投合し、陳余がやや若いために義兄弟の契りを結び、かつての藺相如廉頗に倣ってお互いに首を斬られても良いという刎頸の交わりを結んだ。陳余はしばしば苦陘に遊学に行き、そこで兵法を学び、現地の富豪の公乗氏の娘を娶った。

魏滅亡後の苦難時代

紀元前225年に魏がによって滅ぼされると、張耳と陳余は名を変えてのある村の門番となった。既に二人の名は世に知られており、秦に狙われていたためである。そこで村役人に陳余が因縁をつけられ、袋叩きにされるという災難に遭うが、張耳が「陳余よ!わしらはこんなくだらんことで命を落とすべきではない!将来のために我慢すべきだ!」と慰めて支え合ったという。

紀元前209年陳勝が蜂起すると、両人は直ちに馳せ参じた。陳勝は両人が名士ということで喜んで迎えた。その時、張耳は「張楚王(陳勝)、現在、は混乱中ですので、直ちに攻めるべきですぞ」と進言した。傍らで陳余も「わたしは若い頃、趙で兵法学を学んでおりましたので、兵法にも趙の地理にも詳しく、容易に落とすことが出来ましょう」と言った。陳勝も頷き旧友の武臣に訊いたところ「張耳・陳余殿の申される通りです。今は好機であり、お二人の力も得ればより間違いありません」と言ったため、陳勝は武臣を総大将に、張耳・陳余を副将に任命し、さらに監軍(戦目付)にこれも旧友の一人の邵騒を付け、趙討伐に出した。

その途中で范陽(現在の北京)を攻略した時に、地元の弁士・蒯通が武臣の陣営にやって来て「范陽の郡守は自分の旧知である。わたしに説得をお任せ願いたい」と言ったので、武臣らは蒯通に全てを委ねた。説得は成功して趙の攻略が容易になり、その勢いのまま趙を制圧する。その後、張耳・陳余らは武臣に趙王即位を囁き、武臣は陳勝に奏上した。これを聞いた陳勝は激怒したが、宰相の房君・蔡賜に「ここで背かれでもしたら、大変なことになります」と宥められ、渋々即位を認めた。武臣の出世と共に、張耳は右丞相、邵騒は左丞相、陳余は上将軍へと出世した。

趙平定後、趙王・武臣は更に領地を広げるため配下の将軍を各地の攻略へ向かわせていたのだが、その中の元秦軍の李良将軍が、命じられた攻略が難しかったため、兵の増員を趙王へ願おうと趙都邯鄲へ戻っていた。その途中で武臣の姉の行列に出会い平伏したのだが、彼女は李良将軍だと解らず礼を失してしまった。これに激怒した李良とその部下達は武臣の姉ら一行を殺し、そのまま宮殿に乗り込んで武臣をはじめ左丞相の邵騒らを斬り殺した。

張耳と陳余は間一髪で脱出し、かつての趙の公子であった趙歇を王として擁立、賢人の勧めで信都を都とした。これを聞いた李良は信都を攻めたが、陳余に撃退され秦の章邯の下へ逃亡した。章邯は直ちに武将の王離を信都へ向かわせ、自身は邯鄲の住民を強制的に移住させ、街を破壊し瓦礫に変えてしまった。邯鄲は要害であり、ここに軍勢が篭ったらそれだけで攻略に数年は要するからである。邯鄲が瓦礫と化し王離来たるとの情報に、張耳は趙王と共に信都よりは堅牢な鉅鹿で篭城し、陳余は常山に行って兵を集めることにした。こうして両人は分かれた。

陳余との亀裂

張耳は、若い頃から刎頚の仲と呼ばれた陳余と共に魏に仕え、魏滅亡後も力を合わせて苦難を乗り越えてきた。だがこの鉅鹿攻防戦を機に両人の仲に亀裂が生じることになる。

張耳は陳余の援軍を首を長くして待ち続けた。やがて章邯の本隊が来て総攻撃が始まった。陳余の援軍はその後やって来たが、秦の大軍を見て、容易に手が出せないと様子を見た。これは陳余と共に援軍を出した張耳の次男の張敖も同様であった。攻めない援軍に痺れを切らした張耳は、自分の親族の張黶と陳余の親族の陳澤に、陳余の元へ催促の軍使として赴かせた。それでも陳余は動かなかった。張黶と陳澤の執拗さに根負けした陳余は兵五千人を与えたが、両人は秦軍へ突貫して戦死し、軍勢も全滅した。これを見た援軍は更に動かなくなった。その状態がしばらく続き、信都も飢え落城ももはや時間の問題となった頃に、項羽軍が来援して秦軍を撃退した。

戦いの後、陳余が鉅鹿に入城した際、憤激した張耳は「お前がこんな薄情なやつとは知らなかったぞ!」と叫んだ。だが陳余は「それは誤解だ。俺はあの時攻勢しても全滅するだけだと判断し、状況を見て攻撃する予定だった。それに趙王と張耳が死んでも趙は再興できる、敵討ちも出来る。全滅してはそれも果たせない」と言った。その言葉に怒った張耳は「お前の都合が悪いから、張黶と陳澤を殺したのだろう」と言い出した。陳余も激怒して「貴様はそこまで親友のわしを疑うのか!」と言い返し、更に「わかった!!それならわしは辞任する!これで貴様の気も治まるだろう!」と言い放って将軍の印綬を押し付けると、便所に行ってしまった。驚いた張耳は印を返して仲直りしようとしたが、食客の勧めに従って自ら将軍を兼ねることにした。便所から帰った陳余はそれを見て激怒し、そのまま夏悦ら数百人の部下と共に南皮に去り、漁師として生活した。だが張耳に対する憎悪の念は消えないままだった。

秦滅亡後、張耳もその攻略で功績を立てたので、咸陽項羽に評価され、趙全体を治める常山王に任じられた。趙王歇は代王として左遷された。だが陳余は趙擁立の功績はあったが秦攻略の功績が無かったため、南皮付近の三県にのみ封ぜられた。

そこで陳余の張耳に対する怒りは一気に爆発した。「張耳と項羽は通じているのではないか。だから趙王歇さまを代王に追いやり、自分が常山王となったのだ」「わしもあれだけ功績を残したのに、南皮付近の三県だけとはあまりにも不公平」と憤慨する。やがて腹心の夏悦に「お前は田栄に南皮を無条件で譲渡することで兵を借り受けよ。わしは代に赴き、趙歇さまを迎える」と命じた。

項羽に敵対していた斉王田栄は、味方が欲しいこともあり快く兵を貸した。兵を得た陳余は挙兵し、部下の夏悦らと共に信都を攻めた。住み慣れた城であり弱点も良く知っていたため、容易に落城した。張耳は逃れたものの、その一族は陳余に皆殺しにされてしまう。これをきっかけに親友であった陳余と張耳の関係が、互いに一族同士で憎しみ殺し合う仲になってしまった。

陳余は、代から歇を都の信都に迎えると改めて趙王とし「張耳は楚の項羽に通じ、趙を乗っ取ろうとしておりました」と讒言した。 趙王歇は激怒し、陳余を代王兼宰相に任じて張耳を滅ぼすことを命じた。陳余は腹心の夏悦を代に赴かせてその長官に任じた。居場所がなくなった張耳一行は、初めは天下一の実力者でもあり自分を常山王にした項羽を頼ろうとしたが、近侍の占星術師から「漢王の劉邦のほうが先明があります。また張耳さまのかつて食客でもありましたから、彼は喜んで迎えてくれるでしょう」と勧められたため、漢中の劉邦の下へ落ち延び、劉邦に迎えられて漢に仕えることになった。

陳余への復讐

漢に仕えた張耳は、韓信の副将として数々の功績を立てた。項羽を包囲するために各国と同盟を結んだ漢王劉邦だったが、趙と同盟を結ぶには実力者の陳余の承諾が必須だった。同盟の申し出を聞いた陳余は「項羽と対することは問題ないが、張耳と共に行動することはできないので、その首級を差し出してもらいたい。それなら劉邦どのにご協力しましょう」という同盟の条件を出した。劉邦は頭を抱えたが、家臣の助言で張耳に似た囚人を処刑し、その首を届けさせた。その首を見た陳余は納得し、漢と趙は同盟することとなった。だが、紀元前205年に項羽によって連合軍が大敗した際、逃亡する張耳を趙兵に見られて偽首の件が露見し、怒った陳余によって同盟は破棄された。

その後劉邦は、韓信の進言によって同盟を破棄した諸国を一国ずつ攻めることを決める。韓信がその攻略軍の大将となり、張耳は副将として従った。そして趙都に迫った漢軍は、趙の主力軍を率いた陳余と対峙することになる。漢軍三万に対し趙軍二十万。世に言う井陘の戦いである。この戦いで陳余と張耳は、ついに直接対決することとなった。戦いの結果は、韓信の背水の陣の計略により漢軍が圧勝。この時、張耳は敵の軍師の李左車と陳余の関係がうまくいってないことや、陳余が猪武者だということを韓信に伝え、それを大いに役立たせた韓信が勝利を得たのである。やがて張耳の武将が陳余を討ち取り、張耳の恨みを晴らす。趙王歇も信都で捕虜となった。

井陘の戦い後

井陘の戦いの後、張耳は漢王・劉邦によって趙の王となった。その後、張耳は年老いたこともあり、戦乱に身を投じることもなく、静かに暮らしたという。そして二年後の紀元前202年、張耳は死去した。 次男の張敖が跡を継いだ。張敖には既に先妻がいて息子達を儲けていたが、劉邦の娘の魯元公主を正室として娶り、その間に張偃が生まれたので、これを嫡子とした。紀元前198年、趙の廷尉貫高らがクーデターを起こした罪によって張敖は王位を剥奪され、宣平侯に降格された。紀元前189年に張敖は亡くなり、嫡子の張偃が跡を継いだ。紀元前180年陳平周勃等の元勲達や劉邦の孫らによるクーデターが発生し、呂雉の血筋を引いている張偃ら兄弟が粛清されそうになるが、亡き魯元公主の子ということで、爵位剥奪で済んだ。その代わり、張偃の異母兄の張寿は学昌侯に、もう一人の異母兄の張侈は信都侯として封じられることになる。(共に張敖の先妻の子) しばらくして、文帝が即位すると、張偃は爵位を復帰することになり、今度は新たに南宮侯として以後も存続、

なお、前涼を建国した張軌は張耳の17世孫に当たる(晋書 張軌伝)。

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