「大潮清治郎」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m ロボットによる: カテゴリ追加 Category:福岡県出身の人物 (WP:BOTREQ#出身地方別の職業カテゴリの張り替え2) AWB |
||
2行目: | 2行目: | ||
== 来歴 == |
== 来歴 == |
||
[[陸奥部屋]]に入門、[[1919年]]1月場所に初土俵をふむ。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新[[十両]]が[[1928年]]3月、新入幕は[[1932年]]1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に[[春秋園事件]]が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東[[前頭]]2枚目と[[幕内]]上位に進出することになった(事件前の[[番付]]は東前頭12枚目だった)。そこでもよく健闘し、5月には[[小結]]に昇進した。その後、[[関脇]]に達し、右四つから寄る正攻法の相撲で長く上位で活躍した。典型的な大器晩成で息の長い活躍を見せ、[[1940年]]1月場所に6日目に[[男女ノ川登三|男女ノ川]]を降して[[金星 |
[[陸奥部屋]]に入門、[[1919年]]1月場所に初土俵をふむ。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新[[十両]]が[[1928年]]3月、新入幕は[[1932年]]1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に[[春秋園事件]]が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東[[前頭]]2枚目と[[幕内]]上位に進出することになった(事件前の[[番付]]は東前頭12枚目だった)。そこでもよく健闘し、5月には[[小結]]に昇進した。その後、[[関脇]]に達し、右四つから寄る正攻法の相撲で長く上位で活躍した。典型的な大器晩成で息の長い活躍を見せ、[[1940年]]1月場所に6日目に[[男女ノ川登三|男女ノ川]]を降して[[金星 (相撲)|金星]]を挙げた時の年齢は39歳、[[1941年]]5月場所限りで現役を退いたが、その時は40歳を過ぎていた。人柄良く風格を湛えた土俵態度で力士からの人望も集めた。 |
||
現役中の[[1937年]]から[[二枚鑑札]]で[[年寄]]・[[陸奥 |
現役中の[[1937年]]から[[二枚鑑札]]で[[年寄]]・[[陸奥 (相撲)|陸奥]]を襲名し、陸奥部屋を率いて、[[若潮芳雄|若潮]]を幕内に育てた。現役最後の場所は若潮新入幕の場所でもあり、師弟そろっての幕内土俵入りという偉業をなしとげた。引退後は[[1960年]]に部屋を閉じて、同系統で対戦のなかった[[錦島部屋]]に移籍、錦島部屋の消滅後は[[時津風部屋]]にうつり、停年退職を迎えた。 |
||
== 主な成績 == |
== 主な成績 == |
||
15行目: | 15行目: | ||
[[Category:1900年生]] |
[[Category:1900年生]] |
||
[[Category:1979年没]] |
[[Category:1979年没]] |
||
[[Category:福岡県出身の人物]] |
|||
{{Sumou-stub}} |
{{Sumou-stub}} |
2008年6月3日 (火) 15:42時点における版
大潮清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 - 1979年3月29日)は、昭和初期の大相撲力士である。福岡県大川市出身。本名は石橋清治郎。身長184cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。
来歴
陸奥部屋に入門、1919年1月場所に初土俵をふむ。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新十両が1928年3月、新入幕は1932年1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に春秋園事件が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東前頭2枚目と幕内上位に進出することになった(事件前の番付は東前頭12枚目だった)。そこでもよく健闘し、5月には小結に昇進した。その後、関脇に達し、右四つから寄る正攻法の相撲で長く上位で活躍した。典型的な大器晩成で息の長い活躍を見せ、1940年1月場所に6日目に男女ノ川を降して金星を挙げた時の年齢は39歳、1941年5月場所限りで現役を退いたが、その時は40歳を過ぎていた。人柄良く風格を湛えた土俵態度で力士からの人望も集めた。
現役中の1937年から二枚鑑札で年寄・陸奥を襲名し、陸奥部屋を率いて、若潮を幕内に育てた。現役最後の場所は若潮新入幕の場所でもあり、師弟そろっての幕内土俵入りという偉業をなしとげた。引退後は1960年に部屋を閉じて、同系統で対戦のなかった錦島部屋に移籍、錦島部屋の消滅後は時津風部屋にうつり、停年退職を迎えた。