「雅姫 (島津氏)」の版間の差分

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'''雅姫'''('''まさひめ'''、[[安永]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1775年]][[1月28日]]) - [[文化 (元号)|文化]]9年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]([[1812年]][[2月23日]]))は、[[島津氏|島津家分家]]で[[日向国|日向]][[佐土原藩]]主・[[島津忠持]]の[[正室]]。[[島津氏|島津本家]]の当主で[[薩摩藩]]主・[[島津重豪]]の養女。実父は[[加治木島津家]]当主・[[島津久徴]]。実母はその正室・多千子。別名「明子」。子に[[島津忠徹]]。
'''雅姫'''('''まさひめ'''、[[安永]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1775年]][[1月28日]]) - [[文化 (元号)|文化]]9年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]([[1812年]][[2月23日]]))は、[[島津氏|島津家分家]]で[[日向国|日向]][[佐土原藩]]主・[[島津忠持]]の[[正室]]。[[島津氏|島津本家]]の当主で[[薩摩藩]]主・[[島津重豪]]の養女。実父は[[加治木島津家]]当主・[[島津久徴]]。実母はその正室・多千子。別名「明子」。子に[[島津忠徹]]。


安永3年(1774年)12月27日に[[鹿児島城]]下の加治木島津家の屋敷にて誕生した。その後、島津本家及び薩摩藩主・島津重豪の養女となり[[江戸]]の島津薩摩藩邸に入る。その後、佐土原藩主・島津忠持と婚約し、忠持に輿入れした。[[寛政]]9年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[1797年]][[9月21日]])に嫡子の忠徹を産む。
安永3年(1774年)12月27日に[[鹿児島城]]下の加治木島津家の屋敷にて誕生した。その後、島津本家及び薩摩藩主・島津重豪の養女となり[[江戸]]・[[三田 (東京都港区)|芝三田]]の薩摩藩邸に入る。その後、佐土原藩主・島津忠持と婚約。雅姫は佐土原藩邸に居を移し、忠持に輿入れした。[[寛政]]9年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[1797年]][[9月21日]])に嫡子の忠徹を産む。


文化9年(1812年)1月11日に江戸死去。
文化9年(1812年)1月11日に江戸の佐土原藩邸上屋敷にて死去。


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2008年4月18日 (金) 13:08時点における版

雅姫まさひめ安永3年12月27日1775年1月28日) - 文化9年1月11日1812年2月23日))は、島津家分家日向佐土原藩主・島津忠持正室島津本家の当主で薩摩藩主・島津重豪の養女。実父は加治木島津家当主・島津久徴。実母はその正室・多千子。別名「明子」。子に島津忠徹

安永3年(1774年)12月27日に鹿児島城下の加治木島津家の屋敷にて誕生した。その後、島津本家及び薩摩藩主・島津重豪の養女となり江戸芝三田の薩摩藩邸に入る。その後、佐土原藩主・島津忠持と婚約。雅姫は佐土原藩邸に居を移し、忠持に輿入れした。寛政9年8月2日1797年9月21日)に嫡子の忠徹を産む。

文化9年(1812年)1月11日に江戸の佐土原藩邸上屋敷にて死去。