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{{大統領
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|+ <big>'''ジョルジュ・ポンピドゥ'''</big>
| 人名=ジョルジュ・ポンピドゥ
| 各国語表記=Georges Pompidou
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'''ジョルジュ・ポンピドゥ'''('''Georges Pompidou''', [[1911年]][[7月5日]] - [[1974年]][[4月2日]])は、[[フランス]]の政治家。日本の報道関係では慣用的に'''ポンピドー'''と表記することが多い。
'''ジョルジュ・ポンピドゥ'''('''Georges Pompidou''', [[1911年]][[7月5日]] - [[1974年]][[4月2日]])は、[[フランス]]の政治家。日本の報道関係では慣用的に'''ポンピドー'''と表記することが多い。



2007年11月22日 (木) 22:37時点における版

ジョルジュ・ポンピドゥ
Georges Pompidou


フランス共和国
第5共和制2代 大統領
任期 1969年7月15日1974年4月2日

出生 1911年7月5日
モン・ボーディフ
死去 1974年4月2日
パリ
政党 フランス国民連合

ジョルジュ・ポンピドゥGeorges Pompidou, 1911年7月5日 - 1974年4月2日)は、フランスの政治家。日本の報道関係では慣用的にポンピドーと表記することが多い。

シャルル・ド・ゴール大統領の下で首相(在任 1962年4月16日 - 1968年7月13日)。

フランス第五共和政第2代共和国大統領(在任 1969年7月15日 - 1974年4月2日)。

生涯

両親が教育者の家に生まれたポンピドゥは、パリの名門リセであるルイ・ル・グラン校で学んだ。1931年、パリの高等師範学校に入学を果たし、1934年には文学のアグレガシオン(1級教員資格)を取得。卒業後はまずマルセイユで、次いでルイ・ル・グラン校と並ぶパリの名門リセ・アンリ4世校で教鞭を執った。

第二次世界大戦中は対独レジスタンスに参加。パリ解放後はシャルル・ド・ゴール将軍首班の政府において官房の職に就き、国務院調査官などを経て、1954年から1958年までロスチャイルド銀行頭取。1958年、ド・ゴールが首相として政界復帰を果たすと官房長官を務めた後、ド・ゴール大統領の下で1962年4月16日から1968年7月13日まで首相を務めた。

ド・ゴール引退後の1969年6月15日の大統領選挙において、58.22%の得票率で当選した。ド・ゴールの後継者として登場しつつも、「連続と開放」を掲げていくつかの点で軌道修正を図った。例えば、外交面においては、イギリスのEC加盟を支持する姿勢をとり、イギリスは1973年に欧州共同体加盟を実現させた。同年に起こった石油危機への対応に追われる中、大統領在任中の1974年に白血病で死亡した。

関連項目

先代
ミシェル・ドブレ
フランスの首相
1962年 - 1968年
次代
モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル
先代
シャルル・ド・ゴール
フランスの大統領
1969年 - 1974年
次代
ヴァレリー・ジスカール=デスタン