「Mr.ミスター」の版間の差分
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*ザ・ボーダー(1987年) |
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*スタンド・アンド・ディリヴァー(1988年) |
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==外部リンク== |
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*[http://www.rockpoplyrics.com/mrmister.php Mr.ミスター歌詞] |
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[[Category:アメリカのバンド]] |
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2007年9月21日 (金) 06:08時点における版
Mr.ミスター(みすたーみすたー、Mr. Mister)はアメリカのバンド。1980年代半ばに2曲の全米1位ヒットを放った。
略歴
ロサンゼルスでスタジオ・ミュージシャンとして活動していたリチャード・ペイジ、スティーブ・ジョージが結成したペイジズを前身とする。ペイジズ解散後、ペイジとジョージは新たなメンバーにスティーブ・ファリスやパット・マステロットを迎えてMr.ミスターを結成、1984年にデビューした。
この直後、リチャード・ペイジはボビー・キンボールの後釜としてTOTOのボーカリストに、ピーター・セテラの後釜としてシカゴのボーカリスト/ベーシストに誘われた。両者とも超大物バンドであり、ペイジにとっては大出世の話だったが、自身のバンドを続けるためにいずれも断っている。
1985年、2作目のアルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・リアル・ワールド」からシングルカットされた「ブロークン・ウィングス」が全米1位を記録。続くシングル「キリエ」も1位、アルバムも1位の大ヒットとなり、バンドはブレイクした。
しかし1987年の「ゴー・オン」は意欲作だったもののセールスに恵まれなかった。このアルバムには、リチャード・ペイジたちが矢沢永吉に提供した「サムシング・リアル」をカバーしている。
1989年にスティーブ・ファリスが脱退。バジー・フェイトンが参加し、次作「Pull」をレコーディングしたが、レコードレーベルがリリースを拒否し、お蔵入りとなってバンドは解散した。
その後、それぞれのメンバーはスタジオ・ミュージシャンとしての活動を再開した。 リチャード・ペイジはマドンナの「I'll Remember」の作曲を手助けしたのを機会に著名なプロデューサー、パトリック・レオナルドとバンド「サード・マチネー」を組み、アルバム「Meanwhile」を1994年にリリース、その後はソロとして 1996年に「シェルター・ミー」を出すが、こちらもセールスに恵まれなかった。2003年には、竹内まりやの「純愛ラプソディー」を英語でカバーしている。
スティーヴ・ファリスは1997年にはホワイトスネイクのツアーにギタリストとして参加、その他にも2000年にはドン・ヘンリーのツアーに参加もしている。
スティーヴ・ジョージは1991年-1997年までケニー・ロギンズの音楽ディレクターとしての仕事をし、1999年にはジュエルのツアーに参加。それ以後はソロアルバムをリリースする計画をすすめている。
パット・マステロットはMr. ミスター解散後、キング・クリムゾンのドラマーとして活躍。
メンバー
ディスコグラフィー
アルバム
- アイ・ウェア・ザ・フェイス(1984年:全米170位)
- ウェルカム・トゥ・ザ・リアル・ワールド(1985年:全米1位)
- ゴー・オン(1987年:全米55位)
シングル
- ハンターズ・オブ・ザ・ナイト(1984年:全米57位)
- ブロークン・ウィングス(1985年:全米1位)
- キリエ(1985年:全米1位)
- イズ・イット・ラブ(1986年:全米8位)
- サムシング・リアル(1987年:全米29位)
- ザ・ボーダー(1987年)
- スタンド・アンド・ディリヴァー(1988年)