「シュタージ」の版間の差分

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2007年7月13日 (金) 13:20時点における版

シュタージのロゴ
シュタージのロゴ

シュタージStasi)とは、東ドイツ秘密警察諜報機関である国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit、略号:MfS)の通称である。英語の「state security」に相当するドイツ語の「Staatssicherheit」の太文字部分を読んで 「Stasi」 と呼ばれた。徹底した監視態勢で東ドイツ国民を震え上がらせるばかりでなく、西ドイツにもスパイを送り込み、東西両ドイツ国民から恐れられた。なお「Stasi」を日本語カタカナで表記する場合、英語読みか稀に「シタージ」と表記している文献もある。

歴史

1947年8月16日、東ドイツのソ連占領軍当局は、「第5委員部(K-5)」(秘密警察組織)を創設した。その委員(大臣に相当)にはヴィルヘルム・ツァイサーを、副委員にはエーリッヒ・ミールケを任命した。形式上、K-5は人民警察刑事局に従属した。

注記:東ドイツでは1949年のドイツ民主共和国建国以前からソ連軍軍政下に自治組織であるドイツ経済委員会 (Deutsche Wirtschaftskommission:DWK)があり、「人民警察」も組織されていた。つまり、ドイツ民主共和国の建国以前から警察組織が存在していた。この「人民警察」は後に「武装警察」を経て国家人民軍の母体となった。また、K-5やシュタージの創設にはナチス政権時代の秘密警察のゲシュタポや諜報機関のSD(ナチス親衛隊情報部)の出身者が相当数採用されたとの説もあるが、詳細については不明な点が多い。真偽の程はともかく、「首から上はすげ変わったが首から下はゲシュタポやSDをそのまま受け継いだ」と揶揄されることもある。

1949年のドイツ民主共和国建国後、1950年に国家保安省が創設された。国家保安相にはツァイサーが、次官はミールケが任命された。1953年、ミールケはベルリン暴動と関連して、ツァイサーを弾劾し、ツァイサーは解任された。国家保安省の地位は低下し、内務省に従属する庁扱いとなった。内務省国家保安局長にはエルンスト・ヴォルヴェーバーが、副局長にはミールケが任命された。

1955年、シュタージは省の地位を取り戻した。ミールケは、ヴァルター・ウルブリヒト支持の際、ヴォルヴェーバーを弾劾した。1957年11月1日、ヴォルヴェーバーは、健康上の理由で辞任し、ミールケが国家保安相となった。ミールケの下で、シュタージには軍隊式の階級制度および制服が導入され、ミールケ自身は少将となった(1959年に中将)。

1958年、シュタージに、対外諜報を担当する「A」総局 (HV A)が創設された。「A」とは偵察を意味するドイツ語の「Aufklärung」の頭文字である。「A」総局長兼国家保安省次官には、マルクス・ヴォルフ少将が任命された。

1971年、シュタージの策動の下、ウルブリヒトは解任され、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーは、感謝の印に、ミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。

1986年、ヴォルフが辞任。ヴォルフの後任には、ヴェルナー・グロスマンが任命された。当時、「A」局では、4,126人の職員が働いており、各国に4,500人以上のエージェントを有していた。

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊し、シュタージは国家保安局に改称した。同年12月、同局は解散された。

対西ドイツ工作の成果

  • 1954年7月20日、西ドイツの連邦憲法擁護庁(BfV)長官代行オットー・ヨーン博士が東ドイツに亡命(のち西ドイツに帰国)。
  • 1985年8月15日、連邦憲法擁護庁長官ハンス・チトケが失踪した。8月19日、チトケは、東ベルリンで記者会見を開き、西ドイツと決別し、東ドイツで新しい生活を送ることを明らかにした。後にベルリン・フンボルト大学において、BfVの活動を記述した「ドイツ連邦共和国における憲法擁護庁の防諜機能」という論文で博士号を取得。1989年、ソ連に亡命。

対国内諜報活動

シュタージは軍隊式の階級を持ち、正規職員は人民軍(陸軍)のものと酷似した制服を着用することもあった。また、それ以外にIM (Inoffizieller Mitarbeiter:非公式協力者)と呼ばれた密告者を多数抱えており、彼らによって国民を監視し、国内の反体制分子を弾圧した。その徹底振りはソ連のKGBをも凌ぐほどであったとされる。反体制分子と目された人々の個人情報記録は東ドイツが崩壊した後、本人に限り閲覧ができるようになったが、それによって家族や親友が実はシュタージの協力者であったという事実を知り、家庭崩壊や人間不信に陥った人々も少なくなく、中には精神を病む者さえ少なからず発生した。

政治スキャンダル ギヨーム事件

シュタージのギュンターとクリステルのギヨーム夫妻は、世界で最も傑出した諜報員と考えられている。

1956年、ギヨーム夫妻は、難民に偽装して西ドイツに入国した。ギヨームは、1970年1月28日から首相官房で働き始め、1972年にはヴィリー・ブラント首相の個人秘書にまで出世した。この瞬間から西ドイツの政策、特に「東方政策」の内容は東ドイツにとって秘密ではなくなった。

1973年5月24日、西ドイツの連邦憲法擁護庁にギヨームがシュタージのスパイ「ゲオルグ」であることを示唆する報告書が提出された。ギヨームは、11ヶ月間監視下に置かれたが、現行犯逮捕されるミスを犯さず、シュタージの密使と会見し続けた。

1974年1月、西ドイツの検察当局は、証拠不十分のためギヨームに対する逮捕令状の申請を却下した。1974年4月24日、ギヨームは彼を逮捕しに来た警察官に対して、「私はドイツ民主共和国国家人民軍の将校で、国家保安省職員である。将校としての私の名誉を尊重することを望む」と告白した。この事実は、直ちにブラント首相に報告され、後に彼自身の辞任の原因ともなった。

1975年12月15日、ギヨームは禁固15年(妻クリステルは8年)を言い渡されたが、1981年10月、西ドイツのエージェント8人と交換で釈放された(妻クリステルは6人と交換)。その後、ギヨームはシュタージの諜報学校で講義を行い、1995年に死去した。

ドイツ統一後

シュタージ解散後、米国とドイツ間でエージェントの名前が記された「シュタージ・ファイル」の獲得を巡る暗闘が始まった。シュタージ・ファイルとは、一種のカードであり、情報源の項目にはエージェントの登録番号と偽名、本文の項目には提供情報のレジュメと日時が記載されていた。

1990年1月15日、東ドイツの人権活動家達がベルリンの旧シュタージ庁舎を占拠した。彼らは、大量のファイルを入手したが、対外諜報機関関係の書類だけは一つも見つからなかった。対外諜報関係の資料は、マルクス・ヴォルフがソ連に持ち出したとも、KGB駐東ドイツ支局が焼却したとも言われている。当時、CIAは、「薔薇の木」作戦を実行し、大量のマイクロフィルムを奪取することができた。

ドイツ政府は、この文書の返還を求めたが、米国は拒否し続けた。ある時、CIAは、BfV駐ワシントン代表にエージェントのリストを閲覧させたが、この際、持ち帰りやコピーできず、筆写しか許されなかった。

ドイツも、アメリカも、シュタージの記録を解読できなかったことで、暗闘は先鋭化した。この問題は、文書の一部が解読された1999年1月になって初めて解決した。解読された文書は、1969年から1987年までの記録であり、16万件を超える。現在、シュタージの文書解読には、元反体制派の牧師、ヨアヒム・ガウクを長とする40人の職員が従事している。文書の総数は、9億件にも上るとされる。

2001年1月2日、インターネット上にエージェント10万人のリストが掲載された。リストには、氏名だけではなく、彼らの批評や毎月の報酬まで書かれていた。

シュタージの登場する映像作品

参考文献

  • 秦郁彦(編)、『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』、東京大学出版会、2001年
  • 関根伸一郎(著)、『ドイツの秘密情報機関』、講談社、1995年
  • 河合純枝(著)、『地下のベルリン』、文藝春秋、1998年
  • アナ・ファインダー(著)、伊達淳(訳)、船橋洋一(解説)、『監視国家』、白水社、2005年
  • T・ガートン・アッシュ(著)、今枝麻子(訳)、『ファイル』、みすず書房、2002年
  • 桑原草子(著)、『シュタージの犯罪』、中央公論社、1993年

関連項目

外部リンク

シュタージ博物館(ドイツ語、英語)