「向島百花園」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''向島百花園'''(むこうじまひゃっかえん)は、[[東京都]][[墨田区]][[向島 (東京都) |東向島]]3-18-3にある都立公園。 |
'''向島百花園'''(むこうじまひゃっかえん)は、[[東京都]][[墨田区]][[向島 (東京都) |東向島]]3-18-3にある都立公園。 |
||
みどころは早春の[[ウメ|梅]]と秋の[[萩]]である。隅田川七福神の「[[福禄寿]]」が祭られている。 |
みどころは早春の[[ウメ|梅]]と秋の[[ハギ|萩]]である。隅田川七福神の「[[福禄寿]]」が祭られている。 |
||
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、[[1805年]]([[文化]]2年)に開園した。 |
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、[[1805年]]([[文化]]2年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時[[亀戸]]にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも呼ばれていた。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、利用者には「百花園」の命名者である[[酒井抱月]]や門の額を書いた[[大田南畝]]らがいた。 |
||
その後も民営の公園としての長い歴史の後、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け園地は荒廃していったため、東京市に譲渡されて[[1939年]]([[昭和]]14年)には公営の公園として出発した。しかし、[[1945年]](昭和20年)3月の[[東京大空襲]]により全焼した。 |
その後も民営の公園としての長い歴史の後、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け園地は荒廃していったため、東京市に譲渡されて[[1939年]]([[昭和]]14年)には公営の公園として出発した。しかし、[[1945年]](昭和20年)3月の[[東京大空襲]]により全焼した。 |
||
29行目: | 29行目: | ||
*[http://www2u.biglobe.ne.jp/~bokutei/ 墨東歳時記・百花園] |
*[http://www2u.biglobe.ne.jp/~bokutei/ 墨東歳時記・百花園] |
||
[[Category:東京都の建築物・観光名所|むこう |
[[Category:東京都の建築物・観光名所|むこうしまひやつかえん]] |
||
[[Category:東京都の公園|むこうしまひやつかえん]] |
2007年5月28日 (月) 13:06時点における版
向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島3-18-3にある都立公園。 みどころは早春の梅と秋の萩である。隅田川七福神の「福禄寿」が祭られている。
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1805年(文化2年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも呼ばれていた。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、利用者には「百花園」の命名者である酒井抱月や門の額を書いた大田南畝らがいた。
その後も民営の公園としての長い歴史の後、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け園地は荒廃していったため、東京市に譲渡されて1939年(昭和14年)には公営の公園として出発した。しかし、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により全焼した。
戦後は跡地を少年野球場にしようという声も出る中、復興することとなり1949年(昭和24年)再開された。1977年(昭和52年)、国の指定する「史跡及び名勝」となった。
営業時間・入園料・休園日
- 営業時間
- 9:00~17:00(入園は16:30まで)
- 入園料
- 一般 150円(中学生以上。65歳以上70円)
- 休園日
- 年末・年始
(12月29日~翌年1月3日まで)ただし正月3が日は隅田川七福神巡りのため、無料開放されている。