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1821年[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。トルコ軍と戦いつつ味方同士での対立も生じていたギリシャの独立勢力は、1927年に国民会議を開き、国内の対立に関与しておらず、列強諸国とのつながりを有するカポディストリアスを大統領に選出した。ギリシャ独立に対する賛助を求めヨーロッパ諸国をまわったあと、彼は1828年に[[ペロポネソス半島]]の都市[[ナフプリオ]]に上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこの時が初めてであった。トルコとの戦争に内戦も加わり、国を治めるべき政府は形骸化していた。カポディストリアスはイオニア諸島の時と同様に国家体制の整備から初め、まずは国軍の成立をおこなった。[[伝染病]]の為に隔離施設を設置し、[[サルモネラ|腸チフス]]、[[コレラ]]や[[赤痢]]などに罹患した患者を収容した。独立戦争は列強諸国の干渉によって終結し、オスマン帝国との間に和平条約が結ばれた。カポディストリアスは新貨幣を導入し、地方自治体の整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為に[[ジャガイモ]]の栽培を奨励した。
1821年[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。トルコ軍と戦いつつ味方同士での対立も生じていたギリシャの独立勢力は、1927年に国民会議を開き、国内の対立に関与しておらず、列強諸国とのつながりを有するカポディストリアスを大統領に選出した。ギリシャ独立に対する賛助を求めヨーロッパ諸国をまわったあと、彼は1828年に[[ペロポネソス半島]]の都市[[ナフプリオ]]に上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこの時が初めてであった。トルコとの戦争に内戦も加わり、国を治めるべき政府は形骸化していた。カポディストリアスはイオニア諸島の時と同様に国家体制の整備から初め、まずは国軍の成立をおこなった。[[伝染病]]の為に隔離施設を設置し、[[サルモネラ|腸チフス]]、[[コレラ]]や[[赤痢]]などに罹患した患者を収容した。独立戦争は列強諸国の干渉によって終結し、オスマン帝国との間に和平条約が結ばれた。カポディストリアスは新貨幣を導入し、地方自治体の整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為に[[ジャガイモ]]の栽培を奨励した。



[[画像:Gr 20cents.jpg|thumb|ギリシャの20レプタ硬貨]]
国家の権威を高めるため、彼は伝統的な地方の貴族・有力者の力を弱代化させる政策をとった。しかし彼は、トルコとの独立戦争に参加した指導者達の勢力を見誤った。[[ラコニア]]地方でそれらの指導者と新たに任命された知事との間に争いが生じた際、彼はロシアに軍隊の派遣を要請している。ギリシャ軍の多くは未だ独立戦争指導者たちの影響下にあった。1831年彼はマニ半島の有力者ペトロス・マヴロミハルスを反乱の疑いで投獄した。これに反発したマヴロミハルス家の一族二人により、カポディストリアスは1831年10月9日ナフプリオの聖スピリドナス教会で暗殺された。後任の首相には彼の弟であるアウグスティノス・カポディストリアスが就任したが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャには王制が導入され[[バイエルン]]王国の王子が[[オソン1世]]として王位に就くことになった。
国家の権威を高めるため、彼は伝統的な地方の貴族・有力者の力を弱代化させる政策をとった。しかし彼は、トルコとの独立戦争に参加した指導者達の勢力を見誤った。[[ラコニア]]地方でそれらの指導者と新たに任命された知事との間に争いが生じた際、彼はロシアに軍隊の派遣を要請している。ギリシャ軍の多くは未だ独立戦争指導者たちの影響下にあった。1831年彼はマニ半島の有力者ペトロス・マヴロミハルスを反乱の疑いで投獄した。これに反発したマヴロミハルス家の一族二人により、カポディストリアスは1831年10月9日ナフプリオの聖スピリドナス教会で暗殺された。後任の首相には彼の弟であるアウグスティノス・カポディストリアスが就任したが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャには王制が導入され[[バイエルン]]王国の王子が[[オソン1世]]として王位に就くことになった。



2007年4月30日 (月) 06:48時点における版

イオアニス・カポディストリアスギリシャ語: Ιωάννης Καποδίστριας 1776年2月11日 - 1831年10月9日)はロシア帝国外務大臣、後にオスマン帝国から独立したギリシャの初代大統領を務めた。なお、中世・現代ギリシャ語形では「ヨアニス」の方が正確な発音に近い。

経歴

ヨアニス・カポディストリアス

カポディストリアスはイオニア諸島ケルキラ島(コルフ島)に生まれた。 父母ともにイオニア諸島の貴族の家柄であり、父方のカポディストリアス家の過去の当主は、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世により伯爵位を与えられている(イオニア諸島は15世紀後半から1797年までヴェネツィアの支配下にあった)。 カポディストリアの名はイタリア語のカーポ・ディストリア Capo d'Istria (イストリアの先端の意味、現スロベニアの都市コペル)に由来している。

彼はイタリアパドヴァ大学で医学と哲学を学び、1797年21歳になると故郷のケルキラ島で医師として見習いを始めた。ナポレオン戦争中の1799年に島がロシア帝国とオスマン帝国に占領された際には軍事病院の責任者に任命された。1801年イオニア諸島はロシアとオスマン帝国の保護下で7島連合共和国として独立した。当時25歳のカポディストリアは父の代理で国務大臣の職に就いた。外国からの干渉を排するためには住民の連帯感を深める必要があったが、彼は軍隊を用いずに国内の騒乱を静めることに成功した。議会での投票により彼は首相に任命された。

1803年12月にはロシアから与えられたビザンティン憲法にかわる民主化憲法が制定された。首相として彼は国家組織の整備を進め、中でも教育に重点を置いた。長くヴェネツィアの支配下にあったイオニア諸島ではイタリア語が共通語として用いられてきたが、彼はギリシャ語を国家の公用語に選んだ。当時ギリシャ独立を求める文化人の多くがイオニア諸島を訪れている。しかし、1807年にティルジット条約がロシアとフランス間に結ばれるとイオニア諸島はフランスに譲渡されることになった。カポディストリアスはロシアの外務省の招聘を受けアレクサンドル1世のもとで外交官として働くことになった。彼は1813年にロシアの非公式の大使としてスイスに行き、ナポレオンにより強要された共和制によって混乱していたスイスの安定化を模索した。カポディストリアスの助けもあり、スイスは普通選挙により新憲法を制定し、19の州による連邦制をとることになった。1815年のウィーン会議ではロシアの国務大臣としてヨーロッパ内の勢力均衡を重視し、フランスをブルボン朝のもとで王制国家とすることを主張した。かれはまたスイスの憲法を諸国に認めさせ、スイスを永世中立国として承認させることに成功した。これらの外交手腕により彼はアレクサンドル1世からロシアの外務大臣に任命された。

ロシアの外交官として務める間も彼は故郷のイオニア諸島に、そしてオスマン帝国の支配下にあるギリシャに対して注意を払っていた。1818年に彼はイギリスの支配下に入っていたイオニア諸島を訪れた。住民の間で独立に対する希望が強いことを知った彼は翌1819年にロンドンに行きイオニア諸島の処遇に対して善処を求めたが、イギリス政府はこれを拒否している。

1821年ギリシャ独立戦争が始まった。トルコ軍と戦いつつ味方同士での対立も生じていたギリシャの独立勢力は、1927年に国民会議を開き、国内の対立に関与しておらず、列強諸国とのつながりを有するカポディストリアスを大統領に選出した。ギリシャ独立に対する賛助を求めヨーロッパ諸国をまわったあと、彼は1828年にペロポネソス半島の都市ナフプリオに上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこの時が初めてであった。トルコとの戦争に内戦も加わり、国を治めるべき政府は形骸化していた。カポディストリアスはイオニア諸島の時と同様に国家体制の整備から初め、まずは国軍の成立をおこなった。伝染病の為に隔離施設を設置し、腸チフスコレラ赤痢などに罹患した患者を収容した。独立戦争は列強諸国の干渉によって終結し、オスマン帝国との間に和平条約が結ばれた。カポディストリアスは新貨幣を導入し、地方自治体の整備を行った。そして国民の生活水準を引き上げる為にジャガイモの栽培を奨励した。


国家の権威を高めるため、彼は伝統的な地方の貴族・有力者の力を弱代化させる政策をとった。しかし彼は、トルコとの独立戦争に参加した指導者達の勢力を見誤った。ラコニア地方でそれらの指導者と新たに任命された知事との間に争いが生じた際、彼はロシアに軍隊の派遣を要請している。ギリシャ軍の多くは未だ独立戦争指導者たちの影響下にあった。1831年彼はマニ半島の有力者ペトロス・マヴロミハルスを反乱の疑いで投獄した。これに反発したマヴロミハルス家の一族二人により、カポディストリアスは1831年10月9日ナフプリオの聖スピリドナス教会で暗殺された。後任の首相には彼の弟であるアウグスティノス・カポディストリアスが就任したが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャには王制が導入されバイエルン王国の王子がオソン1世として王位に就くことになった。

カポディストリアは現在のギリシャでも大きな尊敬を集めている。旧ドラクマ紙幣、現在の20レプタ(ユーロセント)硬貨には彼の肖像が掲げられ、1990年後半の地方制度改革には彼の名が用いられた。

ギリシャ共和国大統領
1827年 - 1831年
先代:
(独立)
次代:
アウグスティノス・カポディストリアス
ロシア帝国外務大臣
 
先代:
ニコライ・ルミャンツェフ
次代:
カール・ロベルト・ネッセルローデ